1943年5月29日、アッツ島守備隊玉砕!これより玉砕の言葉が公に使われるようになったゾ!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

玉砕:玉のように美しくくだけ散ること。

 
全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと。
 
 
国民に対し報道するにあたり、
 
“全滅”を使用すると不安等をあおりかねない
 
という報道統制から“玉砕”に置き換え、
 
「潔く散った」「武人の誉れ」などの
 
戦意高揚を図ろうとした施策の一環。
 
 
アッツ島の玉砕以降、
 
太平洋戦線の各地において
 
頻繁に使用されることとなります。
 
 
 
 
 
 
アッツ島の戦いは、
 
1943年5月12日に敵の上陸から、
 
29日日本軍が山崎保代司令官を
 
陣頭に最後の突撃後、玉砕するまで続きました。
 
 
 
 
 
 
アッツ島は、
 
アメリカ領アリューシャン列島の一角で、
 
ミッドウェー作戦の陽動として
 
キスカ島と合わせて
 
1942年6月に日本軍が占領しました。
 
 
 
 
 
 
 
1943年5月、敵は空母を含む機動艦隊の支援のもと
 
11000名の上陸部隊を投入し、攻撃を開始します。
 
 
この機動部隊には護送空母ナッソウ(上)のほか、
 
あの真珠湾攻撃の際に損傷が軽微だった
 
戦艦ネヴァダ(中)ペンシルバニア(下)が含まれていました。
 
 
後に日本軍陣地・砲台は
 
この戦艦の艦砲によって粉砕されることになります。
 
 
 
 
 
 
 
 
兵力は日本側の2650に対し、米軍の11000。
 
各地で日本軍は米軍の攻撃を
 
防いでいたが次第に制圧され、
 
兵力は1000名前後までに減少していました。
 
 
 
 
 
 
 
日本軍も一式陸攻で空爆を試みるけど、
 
視界不良のため敵に損害はなく、
 
陸攻はP38の餌食となっていきます。
 
 
 
 
 
 
 
敵は上陸のかなり前からアッツに
 
偵察がてらに飛来した時は
 
爆弾を落として行きよったけど、
 
守備隊や大本営は
 
「こいつらどっから飛んで来てるんやろ!?」
 
と疑問に思わんかったんやろか!?
 
PBYカタリナやったら、
 
航続距離が3800km近くあるから
 
「ダッチハーバーからやろ」
 
と推測できるやろけど、
 
 
 
 
 
 
P38なんか来れるわけがないやん!!
 
空母が近海をうろついてるとでも
 
思たんやろかなぁ。
 
 
全然疑問に感じんかったから
 
キスカのチョイ先のアムチトカ島に
 
敵が飛行場を作ったことなど
 
マジで知らんかったみたいやね。
 
 
 
 
 
 
また海軍の潜水艦作戦も
 
期待した戦果が上がらず、伊31を失う。
 
この海域は濃霧の発生が多いことで有名やから
 
潜水艦で敵艦を発見するのはちと難しいやろなぁ。
 
 
 
伊31潜水艦は、伊15型潜水艦の12番艦として建造された
 
 
 
アッツ島守備隊の奮闘をよそに、
 
大本営はアッツ島放棄を決定。
 
守備隊に玉砕命令を送っています。
 
 
5月29日、
 
残存する1000名の日本軍将兵は
 
万歳を叫んで敵陣地に突入。
 
壮烈なる戦死を遂げます。
 
 
 
 
 
 
日本軍の損害:戦死 2351名 捕虜28名
 
米軍の損害:戦死600名 戦傷者1500名
 
(大半が直接戦闘によるものではなく、凍傷による)
 
 
 
 
 
軍刀を持っているのが、守備隊司令官山崎保代大佐
 
 
 
彼らの犠牲が、
 
この後敵が進攻してくるキスカ島の
 
撤退作戦を実施させたのかもしれませんね。
 
 
連合艦隊は国内の石油の
 
備蓄が少ないことを理由に
 
アリューシャン方面での作戦に
 
消極的だったと聞きます。
 
ならば早々に補給困難な
 
アッツ島も見放して撤退してれば
 
こんな悲劇は起こらんかった。
 
アッツ島守備隊約2650名の
 
兵力をもし沖縄にでも
 
投入してれば、戦局はもう少し友軍に有利に
 
働かなかったやろか!?
 
 
 
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