餓島撤退後、西の護りをしっかりしてないから、敵はブーゲンビル島に押し寄せて来たゾ!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

戦場はついに北部ソロモン諸島に移ります。
 
餓島に勝るとも劣らない苦戦が待ち構えていました。
 
 
1943年4月18日、ブーゲンビル島は
 
連合艦隊司令長官山本五十六の搭乗機が
 
P-38戦闘機に撃墜され戦死した
 
海軍甲事件で一躍有名になりました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ニュージョージア島の戦いでムンダ飛行場奪取に
 
手を焼いた敵は、ブーゲンビル島南部の
 
ブイン飛行場は占領せずに島中央西の
 
エンプレス・オーガスタ湾一角のタロキナに上陸し、
 
新たに飛行場を建設することにしました。
 
上陸は943年11月1日。
 
 
 
 
 
エンプレス・オーガスタ湾上空のSBD
 
 
 
この島を抑えれば、ラバウルも制空権化に置き
 
上陸せずに済むからです。
 
タロキナ上陸の一報が入るや否や、
 
ラバウル駐留部隊は即座に動きます。
 
第一・第二襲撃部隊に、
 
タロキナに逆上陸させる第三襲撃部隊を加え、
 
かつ敵輸送船団撃滅のために出撃しました。
 
しかし第一警戒隊の川内が空襲を受け、
 
所在が敵に知れたのを機に上陸部隊は引き返します。
 
11月2日に日付が変わって間もなく、砲撃・雷撃戦が始まり
 
 
 
 
 
 
川内が被弾、五月雨と白露が衝突。
 
 
 
暫くして今度は初風と妙高が衝突。
 
敵もスペンスとサッチャーが衝突。
 
自滅ともいえる連合襲撃部隊は
 
被害の大きい川内・初風を置いて引き揚げます。
 
やがてこの2隻は集中砲火を浴び、沈んでいきました。
 
 
 
 
 
 
敵に沈没艦はなく、上陸作戦は実行できず、
 
敵輸送船団の撃滅も叶いませんでした。
 
 
 
 
 
 
ブーゲンビル島海域では、
 
輸送任務の途中敵と交戦するケースが主で、
 
日本側に多くの犠牲が出ました。
 
 
お家芸の夜戦もレーダーの進歩に逆転され、
 
いきなり砲撃を受けるケースも目立ってきました。
 
性能は格差はありますが、この海域の戦闘で
 
海軍の艦艇にもレーダーが装備されつつあり、
 
その装備のおかげでミッドウェーの二の舞を
 
踏まずに済んだ時もありました。
 
 
 
瑞鶴に搭載された21号電探
 
 
 
この北部ソロモン諸島、東部ニューギニア地域は
 
『絶対国防圏』の枠外とされたのでいっそのこと、
 
この枠外の全ての部隊を撤退させ
 
後方の防備を固めた方がより有利な展開に
 
持ち込めれたんではないか、と言った見方もあります。
 
 
シーレーンを断たれた北部ソロモン諸島では
 
多くの輸送船が沈められ、守備隊は終戦まで
 
飢餓と伝染病が付きまとうのでした。
 
 
 
 
 
 
ショートランド島東方沖にあるバラレ島には
 
1942年に海軍が飛行場を建設しています。
 
 
 
 
 
 
ブインはもともと餓島攻撃の
 
補助的な役割で建設されました。
 
ですので、ラバウルほどの施設に乏しく、
 
ここに戦爆混合が駐機するのも難しいため、
 
無人島であるバラレ島に飛行場を建設し、
 
主に艦爆・陸攻隊を進出させました。
 
現在でも当時の滑走路が見て取れます。
 
 
 
 

 

 

 

山本は長官はブインと、
 
このバラレを視察する予定でしたね。
 
 
また当家の次席叔父は陸攻隊の一員として
 
ここバラレ島まで進出したそうです。
 
 
ここには駐機状態で朽ちた、
 
1式陸攻などの残骸が今でもあります。
 
 
 
 
 
 
戦後米国人がここから原形を留めている日本機を
 
本国に持ち帰り、レストアしたケースがありましたが、
 
現在は政府が戦争遺物の国外持ち出しを禁じています。
 
禁止が出る前に陸攻を持ち出せてたら、
 
現在陸攻のレストア中の、
 
河口湖自動車博物館の館長は大喜びしたでしょうね。
 
 
 
 
 
 
 
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