沖縄戦において、ほとんど知られていない津堅島の戦い!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

津堅島は周囲約7㎞、面積 1.88k㎡の島で、

 

うるま市の平敷屋漁港からフェリーで約30分で行けます。

 

本島に近い離島で、キャロットアイランドの別名を持ち、

 

その名の通り、にんじん畑が多数存在します。

 

津堅島といえば、マリンスポーツが盛んで

 

本島在住の地元の人々にも人気の島です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな静かに時間が流れてる津堅島ですが、

 

76年前にはここにも敵が上がってきました。

 

この島には津堅地区隊として、

 

野戦重砲兵第7連隊中隊等約200名が駐屯し

 

防備にあったています。

 

 

ふつうこんな島占領する意味があるのかと

 

疑問に思いますが、

 

津堅島は中城湾の玄関口に位置し、

 

敵は現在の宜野湾市辺りからさらに南下すべく

 

中城村周辺に兵站を確保するために、

 

目障りな勝連半島や津堅島の日本軍兵力を

 

叩く必要が生まれてきました。

 

 

野戦重砲兵第7連隊第2中隊は、

 

1942年9月九二式十糎加農砲と共に餓島に渡り

 

敵と壮烈な戦闘を繰り広げてるだけに、

 

津堅島の第1中隊は

 

「自分たちも2中隊に負けてなるものか」

 

と意気揚々です。

 

 

 

餓島に今も残る九二式十糎加農砲

 

 

 

4月5日、敵は輸送船団を中城湾に接近させる前に

 

その周辺(主に知念半島・勝連半島・津堅島)への

 

砲撃を開始します。

 

津堅島の速射加農砲小隊は接近した敵艦艇に発砲。

 

ネバダと掃海艇に命中を与えたものの

 

特にネバダは加農砲の砲弾ではびくともせず、

 

かえって副砲の猛射を浴びることになります。

 

 

 

 

 

 

6日深夜、敵の偵察部隊が上陸。

 

独混15連隊の一部をもってこれを排除。

 

 

10日朝、艦砲が開始。

 

その後最初に戦車が揚陸され、

 

次いで大隊規模が後に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

敵が橋頭保を築く前に、砲陣地が火を吐きます。

 

しかし上空の監視機にその場所を特定され、

 

艦砲を集中されてしまい沈黙。

 

 

 

 

 

 

 

敵上陸地点から、島南西部の津堅集落までの間は

 

畑が広がるのみで、敵は容易に近づいてきます。

 

しかし集落東には対戦車壕が張り巡らされてるので、

 

戦車隊はL中隊と共に壕に沿って北上。

 

敵はすでに観測機を何度も飛ばし、

 

上空から高性能のカメラでくまなく撮影。

 

壕の存在も確認済みなので、

 

それを避けながら壕の先端部分でUターン。

 

守備隊の側面を突こうとします。

 

 

 

 

 

 

集落北部と東部を守備範囲とした

 

独混15連隊の山崎小隊は、

 

前面に機関銃を配置し、敵を迎え撃ったのですが、

 

接近した戦車にはかなわず叩き潰されます。

 

 

 

 

 

 

 

 

この戦車隊とL中隊は我軍の夜襲を恐れ

 

日没前には上陸地点まで下がったのですが、

 

翌早朝に再び攻撃してきました。

 

 

 

 

 

 

昨日同様戦車壕を迂回し南下してきた戦車を伴う敵兵力は、

 

各砲陣地を突破し、小隊主陣地を攻略したK中隊と合流。

 

また、島の南部に上陸したĪ中隊は、野砲2分隊の反撃に苦戦。

 

右翼側の本隊は36高地に迫ろうとしています。

 

その時残った野砲1分隊は、36高地に張り付いた敵に対し

 

榴霰弾を使用し追い払うことに成功します。

 

 

※榴霰弾とは、

 

時限式砲弾に散弾が多く組み込まれたもので

 

敵の上空に到達するとそこで爆発し、地上の兵に

 

散弾を降り注ぐ仕組みの砲弾。

 

各種の野砲に装填可能です。

 

 

 

三八式榴霰弾弾頭

 

 

 

地区隊長は敵がひるんだ隙に

 

南下してきた敵に対し攻勢を指示。

 

しかし多くの犠牲を出し失敗。

 

 

 

 

 

 

 

 

地区隊長は、各所の残存兵に36高地に終結を命令。

 

野砲第2分隊はよく持ちこたえたが、命令を受け

 

砲を破壊して36高地へ後退して行きます。

 

 

 

 

 

 

追撃してきた敵戦車は、集落の瓦礫により

 

行く手を遮られ歩兵のみが接近してきます。

 

 

 

 

 

 

 

頑強な抵抗も次第に弱まり、1530頃には

 

我軍の組織的抵抗は終了したものとの判断から

 

敵は戦闘継続を中断。

 

その後2時間で島から引き揚げてしまいました。

 

わずか1日半の戦闘でした。

 

 

敵はこの島になんら戦略的価値を見出しておらず、

 

ただ単に我軍の兵力を一掃したかっただけのようです。

 

 

 

残存兵は早朝からあまりの静けさに

 

島内を視察したところ敵の姿はなく、

 

旅団司令部に報告すると、

 

原隊への復帰命令が出て

 

13日夜に刳舟(丸木舟)で勝連半島

 

平屋敷付近に移動。

 

 

 

刳舟

 

 

 

現うるま市周辺はすでに敵の占領下にあり

 

そこを突破して南部に向かうのは無理があるとして、

 

再び海上を進むことに。

 

(独混44旅団司令部は知念半島にあり)

 

途中敵艦艇と遭遇し、一部はUターンし津堅島に戻る。

 

残りは何とか与那原に上陸し原隊に復帰しています。

 

 

 

そして23日に敵は掃討目的で再上陸し、

 

島に残された負傷兵とUターン組は

 

敵の火炎放射によりその多くが焼死。

 


 

 

 

 

敵の掃討を生き延びた者は25日夜に島を脱出。

 

与那原に到着しています。

 

 

この掃討戦を含め二日余の戦闘で、

 

守備隊の半周以上を失う

 

とても悲しい出来事でした。

 

 

 

彼らが転進の際に一度上陸した勝連半島平屋敷、

 

現在この近くにはホワイト・ビーチ地区と言う

 

米軍管理港湾施設があります。

 

米軍向けの補給物資の揚陸全般を行う場所です。

 

 

 

 

 

 

おやっ、桟橋に空母らしきものが停泊中です。

 

少し寄ってみましょう。

 

艦体番号が6とありますね。

 

これは空母ではなく、

 

強襲揚陸艦LHA-6 アメリカですね。

 

 

 

 

 

 

 

強襲揚陸艦とは、元々は人員や物資の輸送任務を

 

主とした輸送艦でしたが、それが発展し

 

港湾設備に接岸しなくとも揚陸できる装備を有した艦で、

 

ヘリコプター・ホバークラフト・上陸用舟艇を搭載し

 

それらを使用して人員や物資を揚陸できるのが

 

強襲揚陸艦になります。

 

 

 

この画像ではオスプレイとF-35Bを搭載しています

 

 

 

 

沖縄の米軍基地は、支那ににらみを利かすためにも

 

米国にとって必要不可欠な存在であり、

 

なかなか返還は難しいですね。

 

 

 

 
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