大変や!!1945年3月13-14日にかけて、B29の大編隊がついに大阪上空に現れたゾ!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

日本本土の初空襲は
 
1942年4月18日のドーリットル空襲で、
 
空母ホーネットからB-25、16機を発進。
 
東京・川崎・名古屋・四日市・神戸
 
などへ爆弾を投下。
 
 
 
 
 
 
B29による日本本土初空襲は、1944年6月16日。
 
福岡の八幡製鐵所の破壊を目的とした
 
八幡空襲に75機が参加。
 
爆撃は北九州の八幡・小倉・戸畑・門司・若松
 
の5都市に及び、270名以上が犠牲となりました。
 
 
 
 
 
 
 
日本本土の主要都市を爆撃するために
 
敵はマリアナ諸島に侵攻。
 
7月9日にサイパン島、
 
8月1日にテニアン島、
 
8月13日グアム島をそれぞれ占領。
 
急ピッチでB29の戦略爆撃基地を建設します。
 
 
1944年11月24日、
 
敵はサン・アントニオ1号作戦を発動。
 
東京、名古屋に対する爆撃で
 
主目標を中島飛行機武蔵製作所、
 
としました。死者224人。
 
 
 
 
 
 
1945年3月10日には
 
ミーティングハウス2号作戦発動。
 
第73、第313、第314航空団の325機の
 
B29がマリアナの各基地から出撃。
 
目標は東京深川区・本所区・浅草区・
 
日本橋区の市街地への無差別爆撃。
 
これまでの空襲は昼間に高高度からの
 
爆撃でしたが、今回は
 
夜間に高度2000m前後の超低空爆撃。
 
1機当たり6トンもの高性能焼夷弾を搭載。
 
この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部
 
約41平方キロメートルが焼失し、
 
死亡約8万4000人、被災者約101万人。
 
 
 
 
 
 
 
帝都が大規模な空襲を受け、次の目標は
 
大阪であると容易に推測できました。
 
しかし父島の電探基地は
 
この大編隊を探知できず
 
近畿への接近を容易に許してしまいます。
 
また近畿各地の航空基地でも
 
夜間戦闘の実績はなく、
 
唯一徳島海軍航空隊は戦闘機の
 
実用機訓練隊ではあったけれど
 
3月時点で白菊による特攻作戦へ
 
方向転換してるのでここも無理。
 
 
 
 
 
 
 
大阪周辺の飛行基地も機能しません。
 
 
 
 
 
 
1945年3月ともなると
 
日本軍の丙戦(夜間戦闘機)の生産体制は
 
遅れを取り、このような地方基地への
 
配備はありませんでした。
 
 
丙戦用に改装された各機
 
 
 
月光(極光)、胴体に20mm機関銃を2丁斜めに搭載
 
第302海軍航空隊厚木基地の銀河
 
彗星12型に20mm斜銃を追加装備
 
第302海軍航空隊の彩雲。風防中央に30mmの大口径斜銃を搭載
 
零夜戦。操縦席後部または胴体左舷に
99式2号4型20mm斜銃1挺を搭載
 
二式複座戦闘機屠龍。飛行第53戦隊所属の二式複戦丙型丁
 
新司偵三型乙+丙。大口径37mm機関砲を上向き砲として搭載
 
 
 
残念ながらこれらの夜戦は、
 
関西各地には配備されませんでした。
 
 
グアムの第314航空団の43機が23時57分
 
 ~14日1時にかけて大阪市上空に到着。
 
港区市岡を照準点として焼夷弾を投下。
 
 
次にテニアンの第313航空団107機が
 
14日0時10分~3時25分に浪速区塩草を
 
照準点に爆撃。
 
 
さらにサイパンの第73航空団124機が
 
14日0時20分~2時25分に北区扇町と
 
西区阿波座を照準点に爆撃。
 
 
 
 
 
 
 
 
炎は大阪湾から吹き込む浜風にあおられ
 
大火災が発生し、中心市街地を焼き尽くします。
 
死者3987名、行方不明者678名。
 
 
 
3月14日の御堂筋。旧イトマンビル屋上から撮影。
左の焼け跡は北御堂
 
空襲後の南海難波駅。右手前には松坂屋大阪店
(現・高島屋東別館)、中央に大阪歌舞伎座が認められる
 
 
 
 
 
その後大阪は8月14日まで8回の空襲を受け
 
約1万人の死者が出ることになります。
 
 
 
 
 
 
 
 
空から落ちてきてもええんは
 
現金ぐらいにして欲しいものですね。
 
 
 
 
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