沖縄十・十空襲を県民は“地獄”と言った!!しかしそれは地獄への序章に過ぎなかった!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

1944年10月10日、
 
この日敵は南西諸島全域に
 
大空襲を敢行しました。
 
本土へのB29の無差別爆撃と違い、
 
敵海軍機動部隊が行った
 
大規模な空襲のことを言います。
 
 
正規空母 9・軽空母 8・戦艦 6・重巡洋艦 4・
 
軽巡洋艦 10・駆逐艦 58・航空機 1081
 
からなる大艦隊です。
 
 
 
 
 
 
 
当時の沖縄は陸軍の第32軍が防衛態勢を構築中で、
 
各地に陸海軍のレーダーサイト、高射砲70門・
 
高射機関砲50門余などが布陣していました。
 
しかし防空戦闘機は、陸軍第8飛行師団隷下の
 
独立飛行第23中隊(三式戦など12機)が
 
本島の北飛行場にいるだけの、
 
戦力と言うには余りに乏しい機数でした。
 
 
 
 
 
 
9日夜に沖縄近海に接近した敵機動部隊は、
 
10日未明に攻撃隊を発艦させ
 
日本軍飛行場を襲いました。
 
制空権を確保するためですね。
  
 
 
 
 
 
 
 
次の目標は那覇港などに停泊中の艦船。
 
潜水母艦迅鯨や魚雷艇・カロ艇・
 
甲標的などの小型までが狙われました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後半の空襲は市街地に向けられ、
 
那覇は一面火の海と化します。
 
 
 
 
 
 
 
 
この日の攻撃は沖縄本島だけにとどまらず、
 
慶良間・宮古島・石垣島など
 
沖縄諸島全域に広がり、
 
また奄美群島にも及んでいます。
 
 
この空襲で受けた人的被害は
 
戦死 218・負傷 243、民間死者 330・負傷 455
 
家屋全損 11451戸となっています。
 
 
 
このあと日本海軍はこの敵機動部隊の追撃に出、
 
台湾沖航空戦が展開されることになります。
 
 
 
 
 
 
この時点で沖縄県民は、来年4月から
 
本当の“地獄”を味わうことなど
 
想像もできないでいました。
 
 
 
 ちなみに、
 
この空襲で沈んだ潜水母艦迅鯨の慰霊碑が
 
瀬底島を望める本部町健堅の
 
美ら海ダイビングセンターの隣にあります。
 
 
2014年まで10月10日に慰霊祭が
 
挙行されていましたが、
 
高齢化のため遺族の参加が途絶えたため
 
最近では行われてないそうです。
 
 
 
沈没寸前の迅鯨
 
 
 
 
開戦以降潜水艦の大量消耗に伴い
 
潜水艦乗員の育成が急務となり、
 
迅鯨も一役買うことになりましたが、
 
それ以上に輸送船の消耗が著しく
 
迅鯨も輸送任務に
 
駆り出されることになりました。
 
 
迅鯨は9月18日佐世保を出港し
 
那覇に向かいました。
 
翌朝敵潜の雷撃で大破し、
 
駆逐艦海威等に曳航され
 
なんとか瀬底島までやって来ます。
 
修理もままならないまま係留されてるとこを
 
敵機に襲われ数日間燃え続け、やがて沈没。
 
 
当家一族の慰霊祭の際、日程の都合上
 
北部へ向かうことは叶いませんでした。
 
美ら海水族館に行く少し手前に
 
あるだけに、残念でなりません。
 
 
 
 
 
 
 
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