日本陸軍の中でも極めつけのパワハラ男、花谷正は戦後ものうのうと生き延びていたゾ!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

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「第弐章」「第参章」「第肆章」
 
の記事を再掲載しています。
 
(記事の内容・画像は掲載当時のモノです)
 
 
 
●2015年2月5日の記事から
 
 
 
軍隊の中にあっては、厳格なる規律の元
 
上下関係がはっきりとしてるのは
 
世界中どこにでもある事です。
 
 
しかし日本軍内においては上官による
 
パワハラやいじめがかなり横行してた
 
と言われています。
 
 
 
 
 
 
その中に代表的な人物が一人。
 
花谷正、最終階級は陸軍中将。
 
岡山県勝田郡出身で陸士・陸大と進み
 
関東軍要職を歴任。
 
関東軍高級参謀板垣征四郎
 
関東軍作戦参謀石原莞爾と共に
 
柳条湖事件を画策。
 
 
 
 
 
 
開戦時は天津の第一軍参謀長で
 
1943年6月には陸軍中将となるのですが
 
この男ここに至るまで
 
これまでの功績と陸大出を鼻にかけ
 
数々のパワハラや暴力で
 
多くの部下をいじめ抜き
 
人のあらを探して蹴落として
 
のし上がったタイプ。
 
 
1942年5月末に日本軍はビルマ全土を
 
ほぼ占領しました。
 
しかしその体制も半年で
 
敵の攻勢にさらされます。
 
 
 
 
 
 
印度とビルマの国境地帯には
 
第55師団が展開しており
 
12月英軍1個師団が侵攻してきました。
 
日本軍部隊は南北から攻勢に転じ
 
これを撃退します(第一次アキャブ作戦)。
 
 
偉大な戦果を挙げた第55師団の師団長に
 
1943年6月、
 
あの花谷中将がやってくるのです。
 
花谷が第55師団師団長になる少し前
 
第15軍司令官に牟田口中将が就任し
 
ウ号作戦(インパール攻略)を立案します。
 
 
このウ号作戦のカモフラージュのため
 
印度国境付近のビルマ・マウンドー近郊の
 
英印軍部隊の殲滅作戦が実施されました。
 
第二次アキャブ作戦です。
 
 
 
 
 
 
英軍は防衛線での持久戦を取り
 
航空機による補給で兵站の伸びた日本軍を
 
随時撃退し損害を強要。
 
 
 
 
 
 
攻撃の諸力であった歩兵第112連隊
 
(通称、棚橋連隊)は、
 
第一次アキャブ作戦の時に
 
電撃的奇襲作戦で、敵の一個旅団包囲殲滅
 
といった殊勲を上げてるため
 
今回も短期で落とせるだろうと
 
わずか4日分の携行弾薬・食糧で
 
攻撃を仕掛けたので
 
敵の持久戦で自滅していきます。
 
(インパールでも同様の事が起こってますね)
 
最前線からの弾薬・食料の要請を花谷は無視し
 
罵声の上に突撃を強要。
 
「出来ぬのであれば自決せよ!」
 
との命令を出します。
 
 
連隊は当初の1/5にまで減少し
 
棚橋連隊長は残存の400名を
 
独断で撤退させます。
 
 
 
棚橋連隊長
 
 
 
花谷は棚橋連隊長の独断の撤退に激怒したが
 
事が大きくなるのを恐れ、作戦を中止します。
 
棚橋大佐は連隊長を解任され
 
帰国した後予備役に回されます。
 
 
この後インパールでも同様の事が起こっています。
 
コヒマへ突入した歩兵第58連隊は
 
英第33軍団を包囲しますが
 
英軍は補給物資を空輸し
 
持ちこたえます。
 
 
一方日本軍は食料・弾薬が尽き
 
マラリアが蔓延し兵は
 
バタバタと倒れていきます。
 
第31師団長佐藤幸徳中将は
 
幾度も軍司令部へ補給を要請するが
 
牟田口司令官はその要請を無視し
 
ひたすら己の名誉欲にこだわり
 
天長節までにインパールを陥落させよと
 
厳命し続けます。
 
 
 
 
 
 
佐藤師団長は自滅しつつある師団を
 
憂い、独断で撤退を決意します。
 
牟田口は激怒し佐藤師団長を更迭します。
 
佐藤中将は軍法会議において
 
牟田口の暴挙を公表しようと
 
考えていたようですが
 
心神喪失による精神障害として
 
前代未聞の命令なき撤退を
 
闇に葬ろうとしたのです。
 
 
歩兵第112連隊長を解任された棚橋大佐は
 
大本営に花谷の狂気に満ちた作戦指導を報告したが
 
辻政信に「なぜ、シンゼイワで
 
全滅しなかったのか。なぜ全員戦死しなかったのか」
 
と花谷と同様に責められ唖然としたそうです。
 
 
佐藤中将は、後に「大本営、総軍、方面軍、第15軍
 
という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を招いたのである」
 
との言葉を残しておられますが
 
辻・牟田口・花谷のような
 
「突撃せよ!」の言葉しか知らぬ
 
指導者が戦争を指揮したのだから
 
そら負けて当然だと痛感します。
 
 
このアホ3人は、無能な指揮のおかげで
 
何十万もの兵の命を奪っておきながら
 
戦後GHQに逮捕されることもなく
 
恩給をもらいながらのうのうと
 
生きながらえています。
 
 
特に辻などは潜伏の後
 
ほとぼりが冷めると
 
衆議院議員4期、参議院議員1期まで
 
努めています。
 
国民は辻の戦争責任を知らなかったのですね。
 
 
花谷は1957年病床につき、まもなく死亡。
 
ビルマ方面軍作戦課長だった片倉衷が
 
元部下たちに葬儀への参列を呼びかけたが
 
一人として参列したものはいなかったそうです。
 
そらそうですよね。
 
 
私も以前勤めていた職場で退職するまで
 
約4年間上司から執拗なパワハラを受けてました。
 
主治医から禁止事項が出てることに対し
 
「何でもかんでも医者がゆうたからゆうて
 
仕事をなめてんのか!?」
 
と健常者と同様の事を求められ
 
上司の机の前で1時間も立たされて
 
説教されたり、
 
罵声を浴びせられたり
 
各班の若い者がミスをすると
 
それは班長の責任やのに
 
私に矛先を向けて来るし、
 
明らかに「役立たずはここから去れ!!」
 
みたいな態度で接してくるし
 
他の社員とは明らかに違う
 
態度を取られ続けました。
 
挙句の果てには
 
「神戸へ単身赴任で転勤しろ!」
 
と辞令を出してくる寸前でした。
 
私が勤めてた職場では
 
障害者は邪魔者でしかなかったのです。
 
 
花谷の元で強烈なパワハラに苦しんだ
 
部下の方々の心情を思い図ると
 
心が痛んでなりません。
 
 
花谷のような狂人は
 
戦犯で裁かれるか
 
潔く自決するべきでした。
 
にもかかわらず
 
戦後ものうのうと生き続けてたことは
 
現在も部下や同僚をいじめ続け
 
踏み台にしてのし上がってる
 
企業の管理者にその悪行的精神は
 
脈脈を生き続けています。
 
この国の恥部なのに…。
 
 
今でも悔しくてなりません。
 
 
 
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