姫路城には不思議がいっぱい!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

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「第弐章」「第参章」「第肆章」
 
の記事を再掲載しています。
 
(記事の内容・画像は掲載当時のモノです)
 
 
 
●2018年2月2日の記事から
 
 
 
お城の構造には“破風”と言う
 
屋根に施された装飾がつき物です。
 
姫路城の“破風”には、
 
“入母屋破風”・“唐破風”・
 
“千鳥破風”が見受けられます。
 
それぞれを拡大した画像があまりないので、
 
南西から天守を望んだ画像で説明しましょう。
 
 
 
 
 
 
まずは大天守西側の最上部と
 
中央部に位置する「二等辺三角形」
 
の形状が“入母屋破風”。
 
また南側の連装破風を
 
“比翼入母屋破風”と呼びます。
 
その上にあるのが“千鳥破風”。
 
“入母屋破風”と“千鳥破風”の違いは、
 
破風の底辺が屋根の端と
 
連結しているのが“入母屋破風”、
 
していないのが“千鳥破風”となります。
 
南側最上部と、“比翼入母屋破風”の
 
下の曲線を描いてるのを
 
“唐破風”と呼びます。
 
 
 
幼少の頃より100回以上登城しているのですが、
 
いつも疑問に思ってたことがあるんです。
 
それは「南側“唐破風”下の格子は何のためにあるの?」
 
ということです。
 
 
 
 
 
 
そもそも破風は、勇壮な“美”を
 
追求したものと言われていますが、
 
この“格子”もまた、
 
「装飾美」のためなのでしょうか?
 
 
 
簡単に言うと、
 
実はただ単に“設計ミス”だったそうです。
 
池田輝政が姫路に入ったのが、
 
関ヶ原の戦いの翌年の1601年。
 
西国には未だ豊臣恩顧の大名が数多くいるため、
 
それらを牽制するために秀吉が築城した城を
 
より堅固にする大改修工事が行われ、
 
わずか8年で完成しました。
 
 
これだけ急がしたわけですから、
 
設計の段階か、
 
あるいは施工の段階でミスが起こっても
 
不思議ではないですね。
 
あの格子で覆っている所の窓は
 
その左右より一段高くあり、
 
極めて不釣り合いであることからして、
 
そもそも城がかもし出す、
 
“美”を損なう恐れがあるためと
 
推測されます。
 
 
 
(以下、平成の大修理以前の画像を多く使用してます)
 
 
 
このような逸話も残されています。
 
天守閣が完成したばかりのある日、

大工棟梁の桜井源兵衛は大仕事を成し遂げた後、

自分の妻を姫路城に連れて行った際、
 
「少々傾いているように思える」と指摘され、

「素人でさえわかるようでは大工の名折れ」と、
 
天守閣の上から身を投げてしまったといいます。
 
それほど急ピッチで建設されたようです。
 
 
私もいつだったか、
 
天守最上階でビー玉を床に置いてみた
 
ところ、やはり東側に転がりましたよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いつだったかなぁ、
 
神戸新聞にこんな記事が載っていました。
 
「平成の大修理」で工事用建屋(素屋根)に
 
覆われた姫路城大天守で
 
最上層北側の軒下にある家紋が、
 
研究者の議論を呼んでいる。
 
 
南側の家紋は城主・酒井家の常紋だが、
 
この紋が何なのか分からないからだ。
 
これまで望遠鏡でも使わないと
 
観察できなかった場所が間近に見られるようになり、
 
姫路城の新たな謎が見つかり始めた。
 
 
 
 
天守南側にある剣酸漿草(けんかたばみ)の紋はこれ 
 
天守北側の不思議な紋
 
 
姫路市立城郭研究室学芸員のお話によれば、
 
雪をかたどった「巌敷き雪」
 
とか言うのに似ているそうだが、
 
姫路城に使われる理由は分からないという。
 
 
また、昭和の大修理の時の写真画像が
 
残されているそうだが、
 
当時はあんまり気にも留められなかったのでしょうか?
 
 
 
同じく平成の大修理で
 
池田家の家紋である『揚羽蝶』の瓦が
 
逆さまに取り付けられてるのが発見されました。
 
 
 
 
 
 
 
どうやら昭和の大修理の際に付けられたようです。
 
木造建築の伝承に
 
「完成した建物は、完成と同時に崩壊の始まりでもある」
 
というのがあるそうで
 
『この天守は未だ未完である』
 
との厄除けの意味合いを残してるのかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
姫路城がそびえたつ小高い丘(?)は、
 
天守がのある姫山と、西の丸のある鷺山の
 
連立した小さな山でした。
 
1333年、隠岐を脱出した後醍醐天皇の命を受けた
 
足利高氏(尊氏は同年8月以降に改名)
 
新田義貞らによって鎌倉幕府は滅亡。
 
同年播磨国守護の赤松則村も反幕府勢力に加担。
 
その時姫山にあった寺を改築し姫山城を築城。
 
それまでここには日女道丘古墳群があったとされ
 
池田輝政の大改修の際に古墳の石棺が転用石として
 
用いられたのではないかと言われています。
 
 
 
代表的なのに備前門の石棺がありますね
 
 
 
このように姫路城には不思議がいっぱいあります。
 
姫路にお越しの際は一度確かめて見て下さいね。
 
 
 
 
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