日本軍の秘密兵器の中で、一つだけ実用化できてたら何が一番ええんか考えてみた!陸軍編 其之壱の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

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の記事を再掲載しています。
 
(記事の内容・画像は掲載当時のモノです)
 
 
 
●2016年5月7日の記事から
 
 
 
◎戦車
 
1939年5月、満蒙国境紛争が起こります。
 
満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突の後
 
日本軍とソ連軍が直接戦闘に参加しました。
 
ソ連が投入した戦車にはT-26やBT-5があり、
 
一方日本側は、九二式重装甲車や九七式軽装甲車
 
などがありました。
 
日本側の武装はその大半が機関銃で、
 
ソ連側には45mm戦車砲が搭載されています。
 
 
九七式軽装甲車
 
 
 
ただソ連側は、故障と乗務員の訓練不足によりその性能を
 
有効に発揮できずにいました。
 
 
 
 
 
 
またノモンハンに初めて本格的に投入された九五式軽戦車は
 
戦車小隊の連携がうまくいき、ソ連の戦車を撃破しています。
 
 
 
 
 
 
日本陸軍の戦車運用は“歩兵支援用”であり、
 
対戦車戦闘は砲兵隊の役割だったので
 
戦車戦を想定してませんでした。
 
 
 
1939年欧州でドイツが電撃戦でポーランドに進出。
 
その立役者が一号戦車と二号戦車です。
 
 
 
 
 
 
これに気をよくした陸軍は、
 
軽戦車でも十分やれるとの自信を持ち、
 
実際開戦直後から、マレー電撃作戦を実施します。
 
ところがどっこい、
 
フィリピン・ルソン島で落とし穴が待ってました。
 
米軍のM3軽戦車の登場です。
 
九五式軽戦車の九四式三十七粍戦車砲では
 
M3軽戦車の装甲を貫通できず、
 
逆にM3の37mm砲は全ての日本戦車の装甲を
 
遠距離から貫通してしまうんです。
 
九七式中戦車の「新砲塔チハ」で
 
ようやく仕留めることが出来たとか。
 
 
 
 
 
 
 
 
戦場の舞台がソロモン方面へ移ると、
 
M3から次第にM4中戦車に装備改変され
 
日本戦車はますます苦しくなります。
 
重装甲と56度の避弾経始に75mm砲のM4に
 
まともにかかって行っては勝ち目はありません。
 
 
 
 
 
 
 
このM4中戦車に対抗する戦車が急がれました。
 
三式中戦車は九〇式野砲を改良した
 
「三式七糎半戦車砲II型」を搭載し、
 
全面装甲は砲塔ではM4に若干劣るものの、
 
車体は同等の50mmを有しています。
 
 
 
 
 
 
欧州での電撃戦では後半には
 
ようやく三号戦車・四号戦車が間に合っています。
 
 
 
 
 
 
 
マレー半島・フィリピン攻略戦は
 
開戦当初から実施されてるので、
 
この時点ですでに九五式・
 
九七式は敵戦車に苦戦してると
 
報告が上がっています。
 
 
 
欧州においても独軍機甲部隊は、
 
東部戦線でソ連のT34、
 
アフリカ戦線では英軍の
 
マチルダII歩兵戦車に苦戦してます。
 
 
 
 
 
 
 
 
これらの情報は逐次日本に伝えられていましたので、
 
陸軍はノモンハンの反省を踏まえ、機甲部隊の拡張を
 
示唆しますが、対戦車戦闘は速射砲隊の担当と言う
 
概念は消えません。
 
 
しかし現実は歩兵直協の体制が崩れることも多く、
 
ドイツのような歩兵戦闘車を追随させる
 
“機械化歩兵集団”を伴うことができず、
 
戦車と歩兵が分離してしまうケースがありました。
 
 
三式中戦車・四式中戦車は
 
これまでの“歩兵支援戦車”から
 
“対戦車戦闘”を想定して計画・開発されるのですが、
 
その意義に気が付くのが遅すぎました。
 
 
三式中戦車は1944年10月に量産体制が、
 
四式中戦車チトは1945年2月に試作車2輌が完成、
 
五式中戦車に至っては1945年3月に試作車1輌が
 
走行実験をおこなったのみで終戦を迎えています。
 
 
 
初戦において対戦車戦闘用の
 
必要性を痛感しておきながら
 
ここまで引っ張ってしまったのは、
 
ここでも陸海軍の予算分配、
 
陸軍内では戦車建造の順位が低かったこと、
 
独ソ戦(クルスク戦)等、参考にした戦いが遅すぎたこと
 
などが挙げられます。
 
 
 
 
 
 
クルスクの戦いでは、独軍はすでに
 
「パンター」「ティーガー」などを投入しています。
 
 
 
 
 
 
その頃太平洋では、1943年2月に餓島から転進。
 
その後もソロモン諸島方面で熾烈な
 
戦いが繰り広げられています。
 
M3軽戦車に手こずっていたのに、この頃には
 
米軍はM4中戦車を配備。
 
 
 
 
 
 
南太平洋各地で日本軍の戦車は撃破されていくんです。
 
 
 
 
 
 
 
サイパンの戦いでは、
 
戦車第9連隊の一部が奮闘。
 
LVT等を撃破し、一時は米軍を水際まで
 
押し戻す活躍を見せます。
 
 
 
 
 
 
 
6月16日の総攻撃の際も戦車第9連隊の主力をもって、
 
敵陣に突入。恐らく日本陸軍最後の対戦車戦闘を展開。
 
M4中戦車と刺し違えました。
 
 
 
 
 
 
 
 
この後、フィリピン・硫黄島・沖縄での戦車隊の戦術は、
 
対戦車戦闘を避け掩体に格納し
 
砲台として使用することになります。
 
 
 
 
 
 
 
 
ノモンハンの反省を謙虚に受け止め、
 
フィリピン攻略戦でのデータと
 
ドイツ電撃戦の分析を冷静に
 
判断してたならば、“対戦車戦闘戦車”
 
の開発は、1943年半ばには
 
生産に入ってたかもしれません。
 
敵に制空権・制海権を握られた
 
中での戦闘は、非情なる困難を
 
伴うものやけど、戦車隊の皆さんにはM4ごときを蹴散らして
 
もっともっと活躍していただけたものと、
 
今更ながらとても残念でなりません。
 
 
 
 
 
 
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