福島県の民話 (1978年) (ふるさとの民話〈10〉)
Amazon(アマゾン)
最近おぼえた「おしらさま」は、養蚕の技術を伝えている。その内容は…
裕福な庄屋に「おしら」という美しい娘がいる。
母親が死ぬと、継母がやってくる。
庄屋がおしらにばかり着物や櫛を買い与えるので、継母はやきもちを焼く。
次第におしらが憎らしくなり、召使いに殺させようとする。
一度目は、獅子のでる山へ置き去りに。
二度目は、人喰い鷹のいる岩山へ。
三度目は、舟に乗せて沖へ流してしまう。
けれども、その度、おしらは無事に屋敷に戻ってくる。
とうとう、継母はおしらを庭に生き埋めにしてしまう。
都から戻った庄屋は、庭のすみで金色に輝く桑の木に気づく。その根元を掘ると、おしらのなきがらがでてくる。ようやく真相を知った庄屋は、継母と召使いを家から追い出す。
金色の桑の木には一匹の蚕(かいこ)がついていた。
庄屋はその蚕を、おしらの生まれ変わりと思って大事に育てる。
やがて、まゆから糸をひき、つむいで、布を織らせ、美しい着物にしたてて、おしらを偲んだ。
それから、かいこのことを「おしらさま」、そして四度の脱皮を「シシのねむり」「タカのねむり」「舟やすみ」「庭のかたすみ」とよぶようになった。
遠野の「おしらさま」は、馬と娘の悲恋を描く。その中国の捜神記に由来するとされる馬娘婚姻譚とは違い、継子譚や舟が登場するこの昔話は蚕影山縁起に近い。
明治から昭和初期にかけて、養蚕業の発展に伴って普及した養蚕信仰に由来し、その技術を伝えている。
家畜でありながら「オカイコサマ」「オシラサマ」と呼び、大事に育てなければ、繊細な蚕は死んでしまう。技術と信仰が養蚕を支えたのだろう。
今日、養蚕業は衰退し、地図から桑畑の記号も消えてしまったが、養蚕信仰は各地に名残をとどめている。
下記は、大正時代に盛行した和讃のひとつ。
女性が集い、皆で唱和したらしい。
七五調で耳に心地よい。ぜひ声に出して読んでみてほしい。
きみょうてふらいこかげさん、蚕の由来を尋ぬれば、昔神代のことなるが、天竺みかどの一人姫、ちぶさの実母に棄てられて、邪険な継母の手にかかり、清涼山の奥山に、獅子の餌食に棄てられて、この時獅子ごと申すなり。そまや山人憐れみて、みかどの館に連れ参り、それを継母は見るよりも、千里薮にと棄てられて、この時鷹ごと申すなり。神通得たる姫君は、またも我家へ帰られる。桑のうつろの船に乗せ、この時船ごと申すなり、桑の葉入れて流されて、憐れなるかや姫君は、沖吹く風にただようて、鳴戸の磯につき給う。浜の人々ひき上げて、見れば貴っとき姫君の、桑の梢を手に持ちて、扶榕(ふよう)の顔(かんばせ)、気高きに、ただ人ならぬ御人と、何故流れ給うぞや、国は何処と尋ぬれば、恥しながら自(みずか)らは、さいしょう国の主にて、父はせんしんじょうをうと、継母のねたみの恐ろしや、かかる難儀の悲しさよ。語り給えば浜人の、我々御共申さんと、さいしょう国へと送りける。それを継母が見しよりも、乾(いぬい)の御殿の広庭に、七尺深く埋めしぞ。その時庭ごと申すなり。いん七日のそのうちに、蚕の虫と現れて、日(ひ)の本(もと)さして天下る。豊浦港につき給う。これこそ蚕の本地なり。南無あむだぶつ、阿弥陀仏。
今野圓輔 『馬娘婚姻譚(ばろうこんいんたん)』
P.172 口承文芸と祭文 蚕影山縁起より