やさしく歌って
ロバータ・フラック
1973年のアルバム収録
BS.TBS📺️
大人の音楽との出会い
Killing Me Softly
このディスク💿️
再生ができました
今日までのディスク💿️は、、
再生ができません(>_<)
残念ながら⤵️
よく働いてくれてありがとう❤️
このシンガーは
さまざまな賞を
ニューヨーク🗽
両親がピアニスト
才女
25年以上クラシックを
ショパン ブラームス プロコフィエフ ラフマニノフ チャイコフスキーなど
9歳から11歳の頃を
そのメロデイと共に過ごした
大学卒業後、音楽教師の傍ら、
ナイトクラブでピアノ弾き語りを
その演奏に魅せられた有名ジャズピアニストに👍️
ファーストレコーディングには
ベーシスト ロン・カーター
【ファーストテイク】
クラシックを学んだ才女はニューヨーク最高のジャズメンとのクラブを皮切りにアーティストのキャリアを重ねていった
映画 恐怖のメロデイ
愛は面影の中に
ロバータ・フラック
ファーストアルバムに収録
されたこの曲
公開後シングルカット
ロバータ・フラック初の全米No.1ヒットとなった
続く1973年ロバータ最大のヒット曲
やさしく歌って…
これは彼女のオリジナルではなくて
運命的な出会い
偶然の出会い
神からの授かりものと、
元々誰かのためにかかれた曲で
既にレコードにもなっていた
飛行機の中で機内誌を開いたときに偶然目にとまった
Killing Me Softly with His Song?
若い女の子の写真も載っていた
誌面を何度も見返したあとで、
聴いてみた
飛行機が着陸するまで5回くらい聴いた
ロバータはすぐその
楽譜を取り寄せた
歌っていたのはロサンゼルス
西海岸のフオークシンガー
ロリ・リーバーマン
実体験から生まれた歌
あの曲がまさかこんなに有名になるとは全く思っていなかった…
アルバムに入れるには
丁度いい曲だと
それぐらいに思っていたから
1972年のある晩
私は友だちに誘われて
クラブに行った
そこでドン・マクリーンという
歌手が
【Empty Chairs】という曲を
歌った
聴くうちに私は彼の歌に
心を奪われていった
まるで、私の人生を歌っているみたいだったから
もしかしたら 彼は私の日記や手紙を読んだのかしら
そんなことさえ思って
心が震えたわ
私にとって それは とても大きな出来事だった
クラブの客席で 私は自分ひとりの世界に入っていった
ショーが終わり
誰もいなくなった後
私はそこに残って
紙ナプキンに詩を書いたの
その後この店で
ドン・マクリーンは
Empty Chairsを歌った
アルバム
【アメリカン・パイ】1971年
愛を失った喪失感を
静かに語りかける言葉とギター
その歌に心を奪われ
書きとめられた詩!
それが名曲が生まれた瞬間
私はその詩を作詞家のノーマン・ギンベルに渡した
彼は私の体験を細かく確認しながら、歌詞を練り上げた
どこに座っていたのか?
どう感じたか?と
そこにチャールズ・フォックスが曲をつけた
彼はとてもよい歌を
歌うって聞いたの
彼は独特のモノを持っていると
聞いたの
だから彼を見に来て
しばらく聴いていようと思った
そしてそこに彼がいた
この若い青年は
見たこともない人だった
彼のユビで私の痛みを
弾いている
私の人生を彼の言葉で語って
彼の歌で優しく私を殺しているわ
彼の歌で優しく私を殺しているわ
私の人生の全てを
彼の詞で語っている
彼の歌で優しく私を殺しているわ
体がカッカしてきたのが
分かったの
こんなに大勢の客の前で
彼が私の手紙を見つけて
一つ一つ読み上げて
いるかと思ったわ
彼が早く終えるように
祈ったけれど
彼はずっと続けていた
Killing Me Softly なんて言葉は
それまでなかった
KillとSoftという
相反する言葉を組み合わせるなんて
最初はメロデイも違ったの
私は高い声が出ないので
変えたのよ
ロバータが私の曲を聴いた時は
ちょうどヒットチャートを
上がっている時だった
反響もいろいろあったけど
その後に
こんなに
有名になるなんて
夢にも思わなかったわ
ロやさしく歌っての楽譜がバータ・フラックの手元に届いたのは
彼女のジャマイカツアーに出ている時だった
ジャマイカですぐに
この曲を
ボブ・マーリーのスタジオで
最初のリハーサルを…
この番組は
まだまだ続いてます
やさしく歌って
曲の
作りから、セッションされた方々
詩を書いた方、
奇跡的な
やさしく歌って…
いつかこの続きを🎶と思いますが
今日は
この辺で
失礼いたします
中途でごめんなさい
詳細はBS.TBSへ
SONG TO SOUL~永遠の一曲
やさしく歌って
*リクエストされるとよいかもしれませんね…
聴いたことのある曲です~
残ります~
・・・