■こうとししてそうくにらる

 元々は春秋戦国時代の呉越の争いから

生まれた言葉のようです。


 越王勾践(こうせん)が呉王夫差(ふさ)を

攻め滅ぼした後、越王勾践が名君では無いと感じ、

功のあった范蠡(はんしょ)は越を脱出します。

その際に同じく功のあった文種に送った手紙の

一部を引用して使われるようになった言葉です。


 その後も文種は范蠡の言を入れずに

越に残ったのですが勾践によって粛清されてしまいます。


 後に韓信が劉邦に粛清されるときも

この言葉を引用しています。


 曹操もかなりの粛清を行いましたが、

司馬懿を粛清しなかったために国を

簒奪されてしまいます。


 日本に目を向けると

江戸時代にも徳川家による意図的な

粛清があったように思われる人物が何人かいます。


 金山・銀山奉行であった大久保長安も

その一人では無いかと思っています。

大久保長安は鉱山から出た金銀の取り分を

4:6とされており、4が幕府、6が長安の取り分でした。

しかしながら、鉱山の運営費や人足代は全て

長安もちでしたが、経費削減を実施して

かなりの蓄財をしていました。

そのため死んだあとに私財没収と一族の連座で

かなりの粛清が行われました。


 その大久保長安の粛清を実施した

本多正純も後に秀忠によって粛清されます。

また、福島正則をはじめとする多くの

豊臣恩顧の大名も粛清されています。


 それらの粛清を行わなかった天下人は

どうなったのか気になりました。


 鎌倉幕府の源家は執権北条氏に

滅ぼされて将軍職は京都から名門の公家や

天皇家ゆかりの人が就任して

実権は執権北条氏におさえられました。


 室町幕府は足利義満を絶頂として

その後は管領に実権をおさえられていたようにも

感じられます。


 豊臣家は徳川家康により滅ぼされました。


 もちろん粛清を行うにはそれなりに天下が

定まっていないと難しいのでしょうが、

有事の英雄は無事の際には反乱分子になってしまう

と言うことでしょうか。


 現代でこれを行うと独裁者と呼ばれてしまいそうですが、

封建時代では当然のことだったのか、

一般の民衆には関係の無い、

武家社会だけの話だからなのかは

わかりませんが、

粛清に成功した政権は

長期政権になるように感じましたが、

粛清に失敗して滅ぼされた政権の方が

多くあるのではないかと思い、

その違いがどこにあるのか興味を持ちました。