思考と判断の根底を探して(9)『教祖の文学-小林秀雄論-』 | ひだまり 日常生活

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今年の夏、ブロガーさんの影響で数学者の岡潔(おかきよし)と小林秀雄の対談『人間の建設』に興味を持った。対談だけの中古の単行本と同じく中古で少し値がはる作品集(小林秀雄全作品 25)のどちらにしようか迷ったが、単行本を選ぶと二度と作品集にある他のものは読まないかもしれないと思い、エイッと作品集を選んだ。私はこれを気に入って何度もページをめくっている。

この本には、『常識について』というデカルトの人物評のような随筆も載っていて、私が最近デカルトを引用しているのは、このせいである。人や作品を評することで、こうも人を魅了するとは不思議なものだと感じた。

先日、私は初めて真剣にある本のレビューを書いた。お世辞でなく、等身大に、責任を持って、しかもレビューを読んだ人が興味を持つように書くには相当なエネルギーを要した。ところで、どうも小林秀雄の文章を読むと頭にモヤモヤしたものが残る気がする。しばらくの間、このモヤモヤはいったい何だろうと考えていた。するとある日、ひょんなことから坂口安吾の随筆集をめくっていたら、『教祖の文学-小林秀雄論-』が偶然目にはいった。確かこれは二年ほど前に読んだはずだが、小林秀雄に対するモヤモヤを抱えたまま見返してみると、これをすっきりさせてくれることを坂口安吾が書いていた。

「・・私が全然あべこべなことを思いこんでいたのは、私が甚だ軽率な読書家で、小林の文章にだまされて心眼を狂わせていたからに外ならない。・・(中略)・・小林は独断先生の如くだけれども、本当は公式的な正統派なんだと私はその時から思っていた。・・」
※1

「・・現在こうだから次にはこうやるだろういう必然の道筋は生きた人間にはない。死んだ人間だって生きている時はそうだったのだ。人間に必然がない如く、歴史の必然などというものは、どこにもない。人間と歴史は同じものだ。・・」※2
 そのうえで、坂口安吾は小林秀雄を教祖と称し「教祖は本質的に鑑定人だ」※3 と言って、過去の人間の相ばかり観ていると痛烈に批判する。

「人間は何をやりだすか分らんから、文学があるのじゃないか。」※4 という安吾の方に私は傾いた。けれど、随筆集の作品解説を読んで考えが揺らいだ。解説は“坂口安吾の人物像を表現した”小林秀雄の一文を引用して締めくくられている。

「・・それに何をしこたま詰め込んだか、大きな茶色のトランクを下げていた。人影もない山間の小駅の、砂利の敷かれたフォームに下り立ったのは彼一人であった。晩秋であった。この『風博士』のごとき異様の人物の背景は、全山の紅葉であった。紅葉という言葉もいかがなものか。雄大な雑木の山々は、坂口君のトランク色のすさまじい火災を起こしているようであった。木枯が来て、これが一斉に舞い上がったら、と私は思った。頭を無造作に分けた彼の顔は、河童のようであった。彼は、長いこと手を振って私を見送っていた。・・」※5

小林秀雄はちゃんと生きた人間を、人柄がありありと、手に取るようにあらわしているではないか。私の頭には再びモヤモヤするものが湧いてきた。

エイッとクリックしたひとつの判断が、こんなに私の世界を広げたかと思うと、私は何とも不思議な気がしてならない。
   


※『堕落論』 坂口安吾 角川文庫
   『教祖の文学-小林秀雄論-』より抜粋
※1=p.233~234  ※2 ・※3=p.239  ※4=p.241 ※5=p.309