趣味に全力で遊ばなくては死ぬ、と書かれている記事を以下に
引用します。
(引用開始)
天国ってどんなイメージでしょう。天界ってどんな風でしょう。
「みなさんは天界に生まれ変わったら、遊んだり、音楽を演奏したり、踊ったり、歌ったり、性的な行為を思う存分やったり、お腹いっぱい食べたり、そういうイメージで『楽しそうだな。』」と思っているでしょうが、それは大きな勘違いだそうです。
みるからにこの世の天国であり、楽園。楽しくて楽(らく)そうに見えます。
でも全く違います。
「でも本当は天界では、そういうことをしないと死んでしまうのです。彼らは楽しんでいるわけではなく、必死で生きているのです。遊ばなくては死ぬのです。」(引用終了)(『仏教は心の科学』 アルボムッレ・スマナサーラ)
最後の一説が良いですね。
「でも本当は天界では、そういうことをしないと死んでしまうのです。彼らは楽しんでいるわけではなく、必死で生きているのです。遊ばなくては死ぬのです。」
僕らもこれをもじって、主張しましょう。
僕らはただ単に楽しんでいるのではなく、必死で生きているのです。趣味に全力で遊ばなくては死ぬのです、と。
『彼らは楽しんでいるわけではなく、必死で生きているのです。遊ばなくては死ぬのです。(スマナサーラ)』純粋に自分の喜びや楽しみのためにやり、全く社会に益しないもの、社会に機能を果たさないものだからこそ、それをやるべきだとT理論は言います。 なぜそれをやるのかと…
ameblo.jp
(
(まといのばブログより。引用者=私が太字処理や囲み処理しています)
また、普段本や映画を読むことはしていたため、それを趣味だとも思っていました。
しかし、上記記事内に
純粋に自分の喜びや楽しみのためにやり、全く社会に益しないもの、社会に機能を果たさないものだからこそ、それをやるべきだとT理論は言います。
なぜそれをやるのかと言えば、ランダムネスを付与するためではないかと「まといのば」では考えます。
~~~
そのような無益なこと、消費にしかならない(投資にならない)純粋な喜びのためにやること、社会の役に立たないことに対して、「趣味」と名付けたとします。
すると、「趣味」という言葉だけが暴走を始め、最初の定義とは異なるそれぞれ独自の解釈が広がり、その意味のネットワークに絡み取られて、我々は身動きが取れなくなります。
~~~
「趣味を持ちましょう」と言われて、「私は読書が趣味です」と答えてしまうようなものです。いや、一般的な回答としては悪くないのですが、理論に従った場合はアウトです。
読書は趣味ではないのです。いや、読書だと広いかもしれませんが、たとえばコーチのような人であれば、漫画であれアニメであれ読者であれ、全て職業のゴールに関わってきます。
ですから、それは趣味ではないのです。
本当に無意味に見える楽しそうなことを必死で探さなくてはいけません。
そして、一生懸命に楽しむ必要がありますw
心の底から。
とあります。
私の場合、普段読む本や漫画、配信で観る映画などは基本的にまといのばブログにて紹介されているもののため、
ヒーラーのゴールに包摂されていたのだと思います。
無意識のうちに「これを読めば、これを観ればヒーラーとして力がつくんだ」という目的意識のため、
「無益なこと、消費にしかならない(投資にならない)純粋な喜びのためにやる」定義に反していました。
ここまでが過去の話でして、
次からがこの一週間の話です。
一つ。
ランダムネスを積極的に取り入れるということに、RASが発火しています。
本屋や図書館で、今まで興味を覚えていなかった棚にも足が向かい、棚の本を見つめ、ぴんときたものを取り、読んでみて身体の反応をチェックする行動が無意識に出るようになっていました。
ふらーっと足が動きます。本棚を観る際に目が動きます。
本を手に取ると、読んでいきますが、今の自分から判断する第三者的な遠さで文字を読むのではなく、
書いている人の気持ちに入ろうという感覚に変わっています。
その人の好きに重なろうという読み方です。
時間があれば、という人生に重要なこととして真剣にランダムネスを取り入れようとする行動がでてきたということかと思います。
龍脈の乗り方についてヒーリングフェスでシンクウさんが仰っていたことが、今更ながら入ってきます。
どこからやってくるかわからないと。
(この記事を書いていて、半年ほど死蔵されていた趣味のゴールを、動かしました。)
二つ。
何の役にも立たないことを、認められるようになってきました。
「なんとなくやってしまっているけど、これ何の役に立つんだろう」の種を摘まずに、エポケー(棚上げ)できるようになってきました。
それは例えば、歌うことです。
いや、歌うといっても、その中でも、歌手の声の出し方にシンクロしようとすることそのものです。
声の出すポイント、喉の形、胸の開き方。
同じ音は出なくても、形を合わせようとします。
実際にできていないとしても、一致した、と感じる瞬間があります。
それがとても気持ちいいのです。
その人の気持ちがわかったような、歌い手の存在がそのまま入ってくるような感覚。
大げさに聞こえると思いますが、人生が入ってくるような莫大な流入が起こります。
ヒーラー&シンガーのKAZUMAさんのボイトレセミナーを受けてから、声や音楽への認識と接し方が変わりました。
それまでは音楽を、音の連なりとして捉えていました。
ボーカルも音の連なりの一つとして捉えていたのですが、特別な、入り口であると感じるようになりました。
この楽しみを否定する回数が減ったことで、声と音の深遠な世界に導かれていく予感があります。
既に今の自分に全く満足できなくなっているからです。
足りないものが多すぎて、何が足りないかもわからないくらいだからです。
また、否定しなくなってきたのは、作曲をAIとすることです。
音楽活動をしている人にとってそれは作曲ではないのかもしれませんが、
私にとっては自分の気持ちや状況、夢を表現しやすくするためのツールです。
suno AIは、
曲のスタイルや歌詞を入れるとインスト曲やボーカル入りの曲を作ってくれます。
(以下の画像)
テクニックとして歌詞のプロンプト部分で、曲の展開やコード指定もある程度できます。
歌うことへの肯定から音楽ってすごいなと思っていたところ、suno AIのことを思い出し、
曲作りをしてみたのです。
自分から出てくるものを入れていくと、簡単に曲が作れます。
そして、出来上がった曲を聞くと、「え、それ、わかる!!」 となることがあります。
「なんでこの人は俺のことを知っているかのように曲を作るんだろう」と、自分が作ったことを忘れて感動します。
仰天して目が飛び出る、あの感覚です。聞いた瞬間思わず椅子やベッドから立ち上がる感覚です。
自分のために作られた曲に出会えた瞬間、の感動です。
他の方の曲を聴いていて歌っていてもそうなることはありますが、
それに出会いやすくなりました。
「無益なこと、消費にしかならない(投資にならない)純粋な喜びのためにやる」ということを肯定することにより、
以下のような、自分を止める声もエポケーしやすくなりました。
「自分の中にあるものを外に出して自分が聞いて感動するなんて自己陶酔の極み」
「自分の現状を吐き出してそこに臨場感を覚えても、それはその瞬間に過去になっているのだから二度と聞かない方がいいのでは」
「自分の曲を作る時間があるなら、自分が知らない情報場を曲にしてくれている先輩方の曲を聴いて自分の身体に取り入れたほうが良くない?」
また、意味を求めず楽しくやっているとすぐに壁に当たります。
suno AIはそれ単体では曲の全部を一気に作ります。一部だけ固定して他の部分を作り直しはできません。
生成AIの仕組み上なのだと思いますが、ガチャであり、より理想に確率を高めていくことしかできません。
一部のメロディーを微修正したい
ここの歌い方は変えたい
といったことができません。
全て作り直しになります。
これはDAWというソフトを使えるようになる必要があるようです。
そして、曲作りやコード進行についてもいつのまにかYoutubeで解説を観ています。
理解できない自分にイライラしつつ、何かの気功技術が発火していることを感じます。
また、suno AIは歌詞が決まっていないと細かい指示ができません。
歌詞や表現したい気持ちがある時に、それに肉付けしてくれるイメージです。
(注:suno AIにもっと習熟している方からは違うのかもしれません)
(追記:有料版だと鼻歌から曲を作ってくれるモードもありました

)
suno AIとやっていて思うのは、
歌詞どころか、頭の中で音にもなってない気持ちのほうが多いということです。
音は浮かんでなくて、無色の情報だけの時が多いです。
音に出力しようとしても「あー」「うー」「ががが」としか出てきません。
これも、もはや外部の人を頼るしかない状況になり、
そうなると音楽をずっとやっている知り合いがいたことをRASが発見します。
趣味を全力でやる
→ 壁に当たり
→ 脳が本気を出す
→ 自力を放棄する
今までは、趣味を本気でやることをしてこなかったので、
趣味に気功が必要になることもわかっておらず、
趣味の現状の外ということに全く臨場感が沸いていなかったのだと思います。
趣味に触発されてか、友人との関係といった人間関係に関しても、現状の外の感覚がでてきました。
既存の友人関係で、過去と同じ遊び方や接し方をするのではなく、
(過去の再生産ではない)いかに楽しめる企画にするか
と新しい発想が出てきます。
そして、やったことがないからどうやればいいかわからないし、
その人のことを思っていたより知らないことに気付き、
頭真っ白になるし、
焦りもすればイライラしそうにもなります。
ただ、これも、外に出ようとしたから起こることなのかと思います。
こういうイライラを悪いことだと思い込んでいました。
それこそ、壁の内側での安住です。
趣味や友人関係を、過去の自分のコンフォートゾーンに戻るための場所にしてしまっていました。
(引用開始)
壁の内側は
快適だったん
ですよ
暑くもなく
寒くもなく
大きな刺激のない
誰かに 心乱される
ことのない世界
誰になんの期待もされず
なんの責任もない
孤独だけど心地よい世界
(引用終了)(p.122「逃げるは恥だが役に立つ」)
(まといのばブログより孫引き)
趣味の内容や誰が友人であるかが変わらなくても、こちらのスタンス次第でいくらでも現状の外になるということなんですね。
本気でやっていない趣味は労働の合間の暇つぶしでした。
ただ時間が過ぎていき、死刑執行を待ってるようだったと自分を思います。
次の労働の時間を待つ。
体力と気力を回復させ、月曜日からの動きに影響がでないようにと。
趣味をやっているつもりでその実、集中しておらず、心は月曜から始まる労働にあり、上の空で過ごしていました。
パスカルのいう『気晴らし』、『悲惨』、を思い出します。
まといのばブログでパスカル、悲惨を検索すると沢山記事がヒットします。
レディープレイヤーワンでは、アバターの向こう側にリアルな人間がいましたが、周りが全てAIであっても満足はできます。パスカルが言うところの、悲惨から目をそらすための暇つぶしがより高度なテクノロジーで補完されるのです。
我々は死に直面することで、生を深く認識します。生、そして、この世界を。
パスカルに言わせれば、そうでない瞬間というのは、むしろ生きていないのかもしれません。人生の悲惨から目をそらす暇つぶし(気晴らし)の時間であり、それ自体もまた悲惨です。
他者を巻き込むゴールと共にオンラインサロンを始められたYukaさんの問いかけがとても素敵だと思い、
セルフチェック(Rゆらぎ)に使わせていただきます。
私は行動に迷ったとき、自身にこう問いかけます。
お金を持っていたら、同じ行為をしますか?
余裕があったら、なんでもできたら、その選択をしますか?
自分が輝いていたら、その行動をしますか?
問いかけると本来何を望んでいるかがわかります。
一方で、やはりお金がないと生きていけないのです。
だからこそ、経済的な安心が手に入ることは大切だなと思います

私も参加させていただきます!
身銭を切った自己開示に共感し、「自分ができることなんてない」と思う前に「このゴールに乗りたい!」と身体が決めていました。
そして、
「自分はノイズになる」という頭の声
VS
「自分の過去のあの経験はこのためにあった」という記憶の再構成
が起こっています。
話があっちこっちに飛んでしまってしまいました。
まとまらないのですが、ここまでとさせていただきます。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!!
ヒーラーの職業訓練として書くことについて