こんにちは。
自分の身体の深いところに少なくとも十年はあった、重い重い情報が自分の身体から外れました!
そのことによる前後の変化を書き残そうと思っております。
変化の瞬間は一瞬で、すぐに変化後の世界に慣れてしまってもはや思い出すことが出来ないということを、ようやく実感したからです。
今の臨場感を残すことが、未来の自分の為、未来の自分のクライアントさんのためになることを信じつつ。
いま、この瞬間の感覚は今しかないということです。
当たり前のようですが、真理です。
移動してしまったら、もう前の臨場感には戻れません。
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新しい学校と同じで、初日は見るもの全てが新しいですが、3日もすれば慣れてしまい、スコトーマになってしまいます。最終学年に至っては、目を瞑っても歩けるくらいです。実際に目を閉じてしまい(スコトーマだらけになってしまい)、大事なことを見過ごしてしまいます。
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だからこそ、「いまこの瞬間の臨場感」はとても大事です。
それも書き留めておけば、自分が指導する側(ヒーリングする側)になったときに、自分の書いた文章を読み返して、初学者の臨場感を少しだけでも思い起こすことができます。ゼロとイチの間には無限の距離があり、ほんの僅かでも思い出せれば、自分のフォロワーさんに寄り添うことができます。
今回抜けたものは、大まかに言えば『幸せになることへの罪悪感』のようです。
以下、前後の変化です。
◆普段
前)
・なにか意義のあることをやらないといけないという焦り。
仕事をしている時間以外が許せず、例えば音楽を楽しんでいる時間や友達と遊んでいる時間も「こんな無駄なことをしている暇はない」という声が過ぎることも。
・苦しくないといけない。使命感を持てという命令が聞こえてくる。
・使命を果たしてからやっと呼吸ができる、それまでは半分溺れていて苦しいものという認識。苦しさから抜け出すためには使命を果たせという声。
後)
・ぼーっとする時間も許容している。許容しているというか気にすることがない。
・want toをやり通した先に苦しさが訪れることはあっても、自分からhave toによって苦しくなる必要はないというスタンスへ。
・ゆったりと呼吸ができる。この世にいながら、社会をみながらも、自分はどこか違うところにもいるような感覚。「すべて世は事も無し。」
時は春、
日は朝()、
朝は七時()、
片岡に露みちて、
揚雲雀()なのりいで、
蝸牛()枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。
◆活躍されている人のブログやSNS投稿を見ている時
前)自分の至らなさを責めてしまう。「良いな」と思っても自分には出来ないと思って深堀りしない。
後)「すごい! かっこいい! 楽しそう! いいな! 羨ましい!」という湿りっ気がないエネルギーが湧いてくる。より知りたくなってくる。
◆ゴール設定をしようとする時
前)
・基本的に苦しい。
・「なぜそんなことを考えないといけないんだろう」「楽しかったことなんてない」というセルフトークが脳を過ぎる。
・「こういうの出しておけばそれっぽいかな」というゴールが出てくる。ゴールに対してわくわくせず、ゴール設定できた達成感で満足する。やりたくなかった課題をなんとか終わらせた感覚に近い。
・効率性を求める声や「そんな事やっている場合じゃない」という声がやってくる。
・ゴールを設定しても、「そんなことをやっている場合じゃない」と『罪悪感から発生している偽ゴール』のみに意識が持っていかれてしまう。
後)
・楽しい。
・すぐに出てこなくても楽しいと感じることを探すこと自体が楽しくなる。
・更に知りたくなって、無意識のうちに深く知っていこうと入っていく。
・身体が緩んでいて、より緩む方向が感じ取れる。
・後ろから責め立てる声がなくなり、ずっしりした安心感があるために急かされることなく、動くときは自然と動く。動かないときは動かない。
自分を守ってくれている鎧が、中の人を殺そうとしていました。
で、最近の脱洗脳の現場では、「中の人」v.s.「鎧」と表現して解説しています。
自分を守るための鎧、自分を守るための建前が、気付いたら自分を侵食しているのです。
そしてそのうち「中の人」の発言権が奪われ、そのうちに生存権までおびやかされる、、、という恐ろしい話です。
鎧は世間の常識や価値観、パラダイムのミメーシスとして生まれ、そのうちに自律的に勝手に動き出します。
鎧は自分(中の人)をたしかに守ってくれますが、重くて身動きが取れなくなることもあります。
そして、鎧は中の人を圧迫して、殺してしまうこともあります。
本音(中の人)が行方不明なのではなく、暗殺されているのです。
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重い情報『幸せになることへの罪悪感』が抜けたときのこともいつか誰かの役に立つかもしれないので、書き残しておきます。
重い情報が身体から抜けるときは、意外にも一瞬でした。
腰から下にずっぽり入っている黒色の両開きの棚として、視覚化されているのですが、
どう考えても触るとまずい、という直感がなるものでした。
開くと、
自分の本音がわかってしまって今の生活に耐えられなくなるか、
後生大事に抱えていたゴールが偽物だとわかって人生を構成していたストーリーが崩れてしまうのでは(つまりその偽ゴールの世界である意味安穏と変化せずに生きていくことができなくなるのでは)、
といった予感がガンガンなり響いていました。
開けたら完全に自分が変わってしまう恐怖があり、触ることさえ躊躇われました。
生まれ変わるか死ぬかの二択しかないといった恐怖感覚でした。
(こんな感じです。)
日中にこれを触ったり開けると、その日仕事ができなくなると考え、
夜を待ち、
帰りの電車や家についてから恐る恐る触れていました。
確か考えていたのは、ゴールについてであったり、メンターの言葉であったりです。
また、この両開きの棚が持っている世界観が前提で、飛び越えた世界ってなんなのだろう、みたいなこともぼんやりとイメージしていました。
そしてそのちょっと気も漫ろなときに、いつのまにか黒い棚が自分の身体の外に出ていました。
自分の身体の中、腰から地面にかけて刺さっていたのに、外に出ており、自分は棚の上に腰を掛けていました。
その事に気づいた時、「え、抜けてる?」と拍子抜けしたような感覚とともに、自分の身体が深く緩んでいることに気づきました。
視界も広がり、世の中が善いものであるというような感覚が芽生え、楽しいことが一杯で、まさに「食べ放題のレストラン」のように思えてきました。
世界は食べ放題レストランのようなものです。好きなものを好きなだけ食べた方が良いのです。実際に自分に引き寄せて、とことん学ぶと結局、全てはつながっていることが見えて、結果的に全て学ぶことになります。そのときに学べば良く、先回りして学んでおくことなどないのです。
「野球にプラトンとか全然関係ない!」と思っていても、気付いたら自分がプラトンの「国家」のイデア論について語っていたりするのです。それは野球にプラトンが必要だからです。
先回りして、全部を学ぼうとすると、虻蜂取らずになります。
そうではなく、つまみ食いで良く、美味しいものだけを、好きなだけ食べ、飽きたらまた別の所へ行けば良いのです。ただし、食べているときは全力で!
自分の中にある、じとっとしたものがどこかへ行ってしまいました。
腐臭と認識していたものが取れていました。
あれもやりたい、これもやりたい、ということがぽんぽんと、明るいイメージを持って飛び出してきました。
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この一瞬を迎えるために、セッションや遠隔ヒーリング、LINEやメールでのやりとりをしていただいたヒーラーの先生・先輩方、ありがとうございます。
YoutubeやインスタLIVEやセミナーにもたくさん視聴・参加させてもらいました。
圧倒的なゴールや身体・美しさを眼の前にぶらさげていただき、
解毒を進めていただき、浄化を徹底的にしていただき、エフィカシーを上げていただき、自愛を共感覚で教えていただき、辛いときには助けていただいたりも。
それらが実を結んだのだと感じています。
ありがとうございます。
またゴールに向かって動いてたら次も何かにぶつかるのだと思います。
でもヒーラーの先生・先輩方や仲間がいればどうということはない、と確信してます。
引き続きよろしくお願いします。
続々と続いてくる後輩には、先生、先輩方がしてくれたように、していきたいです。
しかし彼が追求するものは彼の創意によるものではない。彼の行為は、彼が発見しようとしている隠れた実在による影響を受けるのだ。科学者は問題を洞察し、それに囚われ続けて、ついには発見へと飛躍するのだが、それらはすべて、始めから終わりまで、外界の対象からの恩義を被っているのだ。したがって、こうしたきわめて個人的な行為においては、我意が存在する余地はまったくない。独創性は、あらゆる段階で、人間精神内の真実を増進させるという責任感によって支配されている。その自由とは完全なる奉仕のことなのだ。
マイケル·ポランニー『暗黙知の次元』
ハレ






