私たち現代人は、ある日突然自分たちがこの地上に一人取り残されてしまったこと、死者たちは冗談ではなくまさに完璧に死んでしまったこと、彼らはもはや私達を助けることなどできないことに気づくのだ。
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私たちは自分たちの問題を、それが芸術、科学、あるいは政治のそれであれ、過去からの実際的な協力なしに、吹きっさらしの、今ここの現場で解決しなければならない。
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でもとどのつまり、現代はいかほどの高さにあるのだろうか――。
本当は時代の頂点にあるのではない。それなのに現代は、自分が過去のあらゆる時代、名ただるすべての時代の上に位置していると思っている。
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きわめて強いものだが、おのが運命に確信が持てない時代、自分の力を誇ってはいるが、同時にそれを恐れている時代、そう、これが現代なのだ。
オルテガの『大衆の反逆』を読み進めています。
1929年にスペイン語で出版されたそうですからもうすぐ100年になりますが、
今の時代の特性、生きている大衆の特性を捉えていて、驚いています。
大衆として生きてきた僕にとっては、所与としてきた価値観がとっくに予言されて観測されており、そしてその中に囚われていたことが可視化されていっています。
科学技術が発展し、物質的豊かさに溢れていることにより、所属している時代が過去の全てと比較して頂点に立っている感覚。
頂点に立っていて先を見通せないことによる不安。
もうこの社会でやるべきことは残っていないのではという諦観。
こういう感覚がありました。
自分が生まれて30年の現代日本の時代の特徴かと思い込んでいましたが、
知らなかっただけで、100年前に現れている現象、ありきたりなパターンであったということなのだと知りました。
戦争時の毒が今も引き継がれてきて回っていると(まといのばで)されているのと同様に、
大衆のあり方も引き継いできてしまっていたようです。
また、社会科学の時間軸上の射程の長さに驚愕します。
自分がその知にアクセスしていなかったこと、その知を取り込まずに明日も生きていけると思っていた浅はかさが残念ですが、
T理論とまといのばの気功、ヒーラーの先輩方の場によって別の自分に変わっていっていることに感謝しています。
大衆の反逆を読んでいると、自分の中の脱洗脳が進むことを感じます。
顔つきが明らかに精悍に、変わってきています。
この小さな変化を転がして、大きなスノーボールにしていきます。
以下は続きです。
しかし新しい大衆は、可能性で満ち溢れた、しかも安全な風景の中にいる。そして、ちょうど私たちが別段、自分たちの肩でかつぎ上げなくとも太陽が天空高く輝いているように、すべては彼の意のままに、前もっての努力も必要とせずにそこにあるのだ。
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最も新しい声はこう叫んでいるのだ。「生きるとはいかなる制限とも出会わないこと、つまり何の気兼ねもなく意のままにすることなのだ。」
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いま私たちが分析している人間は、自分以外のいかなる要請に対しても自らを委ねる習慣がない。
耳に痛いです。
何にも制限されないことを自由だと思い、むしろ囚われていた過去を思い出します。
選ばれた人にとって、何か超越的なものに奉仕することに基づかないような生では、生きた気がしないのだ。だから彼は奉仕する必要性を抑圧とはみなさない。
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高貴さは、要請によって、つまり権利ではなく義務によって規定される。これこそ貴族の義務(Nobless oblige)である。
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貴族の特権は、もともとは譲歩とか恩恵によって与えられたものではなく、むしろその反対に闘いとったものなのだ。そして原理的には、それら特権の保持には、特権を与えられた人間は、必要とあれば、つまり誰かがそれに対して挑んできたならば、いかなるときでも再び闘い撮ることのできる人であると想定されている。私的権利もしくは特権は、受身的な所有とか単純な享受ではなく、その人の努力が到達する輪郭を表しているのだ。
あまりに見事で無駄がなく、どこを切り取るか迷ってしまいます。
ビジョン・ゴールに自分を従わせること。
特権を保持すること(ゴールにふさわしい存在・役割であること)は、機能を果たし続けること。
と捉えました。
読んでいただき、ありがとうございました。

