イタリア版「羅生門」

『ヒッチハイク』と言えば、この全裸ライフルである。中学生の頃目にしたのだが題名のフォントの荒々しい感じもあって恐ろしい印象があった。性暴力を連想せずにはいられないのだ。その為か、敬遠して最近まで観ていなかった。実際、全裸ライフルは登場する。しかし、夜間の野外撮影であり、カメラも引き気味で、ポスターほどの強烈なインパクトは感じなかった。このシーンはコリンヌ・クレリーが凶暴な犯罪者の射殺する重要な場面である。しかし、1時間15分頃であり、まだ残り30分弱あるのだ。そしてそこからがこの映画の正体だと思い知る。
トップシーンはフランコ・ネロの構えたライフルのスコープ映像である。 標的は、妻のコリンヌ・クレリー。倦怠期とはいえ遊びにしては不穏な空気が漂う。夫はスランプ気味の作家であり、アル中のせいか乱暴に妻を抱く。妻の方はそれに抵抗しながら結局ヌルッと受け入れる。そんな夫婦の間にヒッチハイカーが闖入する。強盗殺人犯のヒッチハイカーは夫婦を脅かし逃亡を図る。裏切った強盗犯の仲間との攻防が有りながらも、結局夫婦は犯罪者の手に落ちる。そして、問題のシーンになる。縛られ身動きが取れないネロの目の前でコリンヌは凌辱される。言葉で書くと怖いのだが、映像ではどこか儀式めいて見える。生々しくなく、非現実的な雰囲気だ。自らの身体を生け贄として差し出すように見えるコリンヌ・クレリーの神々しいまでに完璧な肉体から発せられる官能美は凄まじい。ここでも彼女はヌルッと男を受け入れしまうのだが、不貞すら肯定させる美しさだ。血走った眼で凝視するネロは息をのみまばたきすらできない。エクスタシーに震えるコリンヌ・クレリーの迫力の前ではネロの怒りや男としての尊厳すらひれ伏す。 そしてその瞬間 ネロの道徳観は 完全に地に堕ちたのだ。
このシチュエーションは、言うまでなく黒澤明監督『羅生門』である。『羅生門』と言えば醜く剥き出しにされた食い違うエゴ、真実を覆い隠すように降りしきる雨の劇的表現効果、革新的カメラワーク等注目されるが、性に大胆に斬り込んだことはもっと称賛されていい。目の前で愛する者が乱暴される。これは男の悪夢である。野生の森の中でレンズが太陽光をとらえることによって肉体に潜むエクスタシーが鮮烈に表現される。サム・ペキンパーが『羅生門』をベストに挙げるのもこのあたりだと思う。『ヒッチハイク』では森雅之であるフランコ・ネロが生き残り、三船敏郎側である犯罪者は、全裸のコリンヌ・クレリーに射殺される。ここから夫婦が再び絆を取り戻すとか、あるいは殺人をモラルに照らし合わせたり常識的展開はしないのだ。ネロは転がり込んだ強奪金を持って逃げようとする。妻の性被害などもう頭にない。ネロは一度死んだ人間なのだ。モラルは死んだのだ。妻はやはり夫を受け入れ、帰路につく。途中に立ち寄ったドライブインで、不良少年たちを説教するネロ。その反感をかって夫婦を乗せた車は襲撃され崖に転落する。悪銭身につかず、罰が当たりましたと思われながらまだ映画は終わらない。フランコ・ネロは瀕死のコリンヌ・クレリーを見捨て、金を奪い、妻を車ごと爆破する。ここに至って観客は冒頭のライフルの標的が遊びではなく本気の殺意だったことに気付く。ネロの振る舞う剥き出しのエゴに芥川龍之介の『羅生門』の老婆のみぐるみを剥ぐ下人の姿が重なる。そもそもの疑問、何故フランコ・ネロが主人公に配されたかこれで納得がいくだろう。ただ一人生き残った彼が満面の笑みでヒッチハイクするラストショット。これからどうなるのだろう。だが、「下人の行方は、誰も知らない」のだ。
因果応報、勧善懲悪やら使いふるされたものをドブに捨てたドラマツルギーは現代に蔓延るポリコレ、コンプラを嘲笑うかのようだ。この映画に図太く生きるネロの姿を否定的に問う視点はまったくないのだ。致死量寸前の毒薬で描かれた好例が ここにある。俗悪の極みかもしれないが、傑作であることには間違いない。