狂犬のブルース。

本作の権藤は暴力団という檻の中の狂犬であり、帰属するヤクザ社会の掟は鎖だ。狂犬でも親分に対して忠誠心を、仲間を裏切らない美徳ぐらいは持ち合わせている。ただ彼の社会性はそれだけだ。全て暴力でかたがつく。欲望の赴くままに生きる権藤にとってヤクザはそういうものなのだ。『現代やくざ 人斬り与太』に見られた組織構造への反逆心が無い権藤には、共感はできないのだが躍動感溢れるカメラワークとシャープな編集で観客の胸ぐらを掴んで放さない。全身から弾き出された文太の喜怒哀楽が全編で飛び散る。邪魔するもの全てに噛みつく権藤は始末され秩序は回復されるが、訪れるのはなんとも言えない敗北感だ。社会的には単なる犯罪者と切り捨てられる権藤のなかに流れる優しさを観客も渚まゆみを知っているからだ。いなくなってせいせいするような存在の人間であっても、渚まゆみにとっては大事な人なのだ。誰にも理解されない愛。ラーメンのチャーシューを涙を流しながら喰う渚まゆみ。その気持ちを観客だけは察せられるはずである。
松田寛夫、神波史男のシナリオは、ストーリーはヤクザ映画的に権藤の組と対立する暴力団とのいざこざををなぞるが、ゴタゴタの全ての原因は権藤であり、この映画の真の争いは組織間ではなく権藤の身内間で行われるのだ。田中邦衛は親に殺され、文太は自分の親分を殺す。この二つはタブーである。権藤はそれには無自覚にも見えるが、目撃してしまった子殺しが親殺しに走らせるのを補強をしたのは間違いない。親分の内田朝雄を射殺シーンで、高らかに音楽が鳴るが、実は何も成し遂げていないのだ。むしろ、その瞬間やくざ者ととしての権藤は死んだのだ。傷を負った権藤は息も絶え絶えに街を彷徨い、廃墟となった映画館に潜り込む。もう彼は組織に繋がれた狂犬ではない。行き先知れない迷い人である。権藤はかつての弟分たちに撃たれ蜂の巣なるのだが、例えば、権藤が殺される前に渚まゆみと上手い具合に再会する展開もありだと思う。それだとメロドラマ過ぎるか、あるいは、そうなると女も死ぬことになるかも知れない。重要なことは渚まゆみは狂犬の子供を産まなけれならないことなのだ。それを告げるラストシーンに立ち込めるのは新たな破壊の予感である。そしてその予感は、『仁義なき戦い』の登場によって実現化することになるのだ。