死ぬことと見つけたり。
 戦の無い時代の侍の存在意義とは。戦いこそ彼らの存在証明なのだ。刃という牙を持つ虎である彼らを権力側は武士道の鎖で縛り飼い慣らす。兵隊であり兵器である為「死ぬことと見つけたり」を振りかざし死を強制させる。所詮、武士道は建前でしかないのだが『十三人の刺客』はそうとは知りながら、それに殉ずる者の物語である。何故か。侍は身分や職業ではなく、生き方だからだ。
 クライマックス、殿様菅貫太郎を討ち取った片岡千恵蔵と旧知の仲である菅の家臣内田良平とが対峙する。斬り込む内田。無抵抗にその刃を浴びる千恵蔵。自らの死を持って内田良平の侍の一部を立たせたのだ。面目を立てることが殺されることなのだ。哀しい美学である。
  それとは相反するように、直後剣豪西村晃は刀が折れると途端に無様に逃げ回り、最後は血反吐を吐きながら絶命する。その無惨な死に様に「死ぬことと見つけたり」なんて言葉は黒く塗り潰される。武士道の光と影。折れた刀はその象徴なのだ。
 要人暗殺は成功したものの結局体制はゾンビの様に生き残る。そこに製作者側の皮肉な戦後観がはっきり写し出される。戦時中、武士道は都合良く利用された。そして今はナショナリズムという商売に転用されているのだ。そう思うと心のなかを映画のラストの狂笑が空しく響いてていく。『十三人の刺客』は生と死を、鮮やかな光と影の美学で描ききった傑作である。しかしその影に、多くが戦争体験者だった製作者たちの呻きが聴こえてくる気がするのだ。