こんにちは。ようこそ、ちゃちょのブログにお越しくださいました。今日も読んで下さり、ありがとうございます。
今回は、今までの「東京を歩く」シリーズで、いつもそばを通ると、改築中だった、江戸東京博物館が4年ぶりにリニューアルオープンしましたので、朝ランと別に、ご紹介したいと思います。
※赤太字は、各HPまたは、より詳しいページにリンクしており、タップすれば、すぐ飛びます。
5月後半から6月の天気の傾向
5月24日(日)は、石神井公園アメダスで、最低13.3℃、最高24.0℃。どんよりした梅雨前の曇りでしたが、定例の朝ランとは別に、久しぶりに都会へ出ました。
6月2~4日には台風6号が沖縄から北上し、日本列島をなめるように通過。今年は台風が28個発生し、その半分が、日本列島に接近する見込みとのこと。
梅雨入りもほぼ予想通りで、九州~近畿は6月4日、関東甲信・東海は7日に入りました。
江戸東京博物館までの道すじ
石神井公園駅9:17発の急行で池袋へ直行10分。
丸ノ内線7分、総武線へお御茶水で乗り継ぎ3分、9:55に両国着。最短ルート所要38分でした。
この日は朝ランだけで12,154歩ですから、両国往復は8,711歩でした。
墨田区の紹介
墨田区は隅田川の東側に広がる下町で、両国はその南西端に位置します。国技館のすぐ隣が江戸東京博物館で、2026年3月に4年ぶりのリニューアルを迎えました。
墨田区の中で両国は南西です。1月は南下の「隅田川七福神を巡る!」で、2025年6月は北の「堀切菖蒲園を歩く!」で、2022年11月は「スカイツリーを歩く!」で向島一帯を、2022年9月は「両国を歩く!」で周辺散策、2024年5月の「隅田川2大ツリー巡り」で、両国から水上バスです。
墨田区に公式マスコットキャラクターはなく、2012年に墨田区内循環型バスキャラクターの、すみまるくんと、すみりんちゃんが決まりました。南側循環のすみりんちゃんには電気バスも。
また、2025年から、すみダックと、すみピヨが、すみだ心のバリアフリー普及啓発キャラクターとして活躍中です。
入り口付近の様子
5月24日(日)は、両国国技館も5月場所・千秋楽。幟が立ち並び、10時の開場を待つ人で賑わっていました。
その隣が江戸東京博物館(墨田区横網1-4-1)。西口から徒歩3分。9:30〜17:30(※土曜は19:30まで)。サッカー場2面分の広さです。2004年の東京シティガイド検定は、6割がここの解説から出題(7割正解合格、合格率65%、優秀で英検1級だと即ガイド採用)でした。
まずリニューアルされたのが、エントランスのオブジェです。鳥居モチーフの赤柱の中にLEDパネルが埋め込まれ、映し出される動画の構成が、柱毎に現代から江戸へ遡る、ワクワク感が高まる構成です。
江戸博物館は1993年に、オープン。膨大な費用がかかりました。総設計の重松象平監督は、小さい頃、3度、水没に遭った経験から、床棟上げ方式を取り、3万㎡(延床4万6500㎡)に35万点の収蔵品があります。奇抜な外観は周囲の下町景観と合っていません。膨大な維持費に、石原慎太郎都知事の「こんなもの、つぶしてしまえ」発言は、有名です。展示内容もあくまで都レベル。
1階がチケット、物産店、カフェ、特別展会場、5階・6階が、エレベーターで昇る常設展会場です。6階が常設展入口です。吹き抜けの原寸大が3つあります。中央の日本橋と、江戸と東京を代表する入口、歌舞伎小屋・中村座と、銀座4丁目服部時計店です。天井に映し出されるスクリーンに、刻々と変わる江戸の空を見上げます。
そのまま奥ののれんをくぐって江戸コーナーに入り、没入感たっぷりです、さらに5階へ降りて江戸と東京の展示を見ます。7階は図書館になっています。
当日券は、すごい混雑でした。100円安く、さっと入れる、前売り券購入を強くお勧めします。
特別展:大江戸礼賛
5月24日(日)は、リニューアル最初の特別展「大江戸礼賛」最終日でした。特別展1600円+常設展800円=2400円。
特別展序章:武蔵野は月に入るべき山もなし
武蔵野図屏風です。武蔵野は月の入るべき山もなし、草より出でて草にこそ入れ。万葉集の和歌です。1603年の江戸幕府入府まで、江戸(武蔵野)は、一面のだだっ広い乾燥した原野でした。
特別展一:将軍のお膝元―武士の都の形成
初代将軍、神君、徳川家康(1543-1616、73歳)像です。晩年に豊臣氏を滅亡させ、江戸幕藩体制の礎を築きました。
徳川将軍家・御三家・御三卿の系図です。壁の解説は、暗くて字が小さいので、今後、あまり使いません。
江戸城回りの屏風絵です。初期の武蔵野の面影が残ります。
太平の世の備えの武家装束です。
真剣です。
両国には、刀剣博物館(墨田区横網1-12-9)がすぐそばの隅田川沿いにあります(1968年創建、9:30~17:00、月休、入館1000円。他では見られない貴重な日本刀を多数所蔵)。
大奥の手縫いの衣装です。
大奥の道具類です。全部、きらびやかに金箔が施されています。
特別展二:江都繁華―町人文化の開花
当時の流行り歌です。二時の相撲(両国・回向院で年3回)、三場の演劇(幕府公認の劇場で、中村座・市村座・森田座の3座)、五街の妓楼(最後の意味の五は、幕府公認の吉原の妓楼。5カ所ある訳ではありません。他の女郎屋と一線を画した妓楼)を、指しています。
相撲取り組み図1824年、です。720年の日本書紀に力比べで豊作を占う祭りとして描かれ、戦国時代も力自慢が家臣に召し抱えられ、江戸中期には、歌舞伎と並んで一般庶民の娯楽になりました。2.3階まである仮設小屋に、観客1万~1万5千人でした。国技館の1万1千人を上回っています。
番付表です。ずらっと力士が並び、ずっと下までいます。これは上半分の図です。
浮絵江戸堺町芝居之図1798年、です。江戸中期から後期にかけて、中村屋などの江戸三座は、幕府公認で歌舞伎興行を許されました。江戸に芝居小屋が最初にできたのは、1624年と早かったのです。中村座の公演では、約25,000人の観客が集まったとされています。
中村座で初代市川團十郎(1660-1704)は、「荒事(あらごと)」という荒々しく振舞い、最後に見得を切る流儀を確立させて大流行を生み、他の地方とは異なり、大きく発展していく契機となります。
青楼之図、歌川国貞画(1813、部分図)。吉原の文化的な社交の場を、よく表しています。2023年5月「吉原を歩く!」でも、わかりやすく、ご紹介しました。
高島おひさ(寛政の三美人の一人と言われます)・画・喜多川歌麿1793年、発行・蔦屋重三郎。明和年間(1764-72)に多色刷りの木版画が広まりました。錦絵は、歌舞伎役者や吉原の遊女、町で評判の美人などの顔の特徴をよくとらえ、名品を生んでいきます。
四世松本幸四郎、東洲斎写楽画、1794。
ご存じ、富嶽三十六景 神奈川沖浪裏 葛飾北斎画、1831-34。赤富士もありました。
江戸絵は、このような絵草紙屋の店先で、売られていました。
特別展三:火事と喧嘩は江戸の華―武家火消と町火消
火事図鑑1826年、です。江戸は木造密集都市で、火事は日常的な脅威でした。そのため、町火消(鳶職中心)64組11,429人と武家双方が巨大な消防組織を持ち、総勢1万人超の消防体制が常時、稼働していました。勝海舟の江戸城無血開城でも、裏で万一に備えていました。
3大大火に、1657年の明暦の大火(江戸城本丸が焼け、江戸の6割が焼失し、死者10万人)、1772年明和の大火、1805年文化の大火があります。
明和の大火の後、大名火消に加え、幕臣による定火消が創設されました。武家火消は、隊列を組んで出動しました。
1718年、町奉行大岡忠相が、高所作業に長けている鳶(とび)職を主体に、隅田川西側をいろは48組、両国・深川の東側に16組で編成しました。町火消は、木綿地の刺子半纏や股引の上から水をかぶって、進んで火の中に飛び込み、大活躍しました。手前木製水鉄砲は貧祖です。
特に見栄えの錦絵は、左から、嵐吉三郎、浅尾与六、関三十郎、河原崎権十郎です。
多くの体験コーナーも、リニューアルの1つです。纏(まとい)は、火消の順番を押え、江戸の火消ここにありという象徴的な旗印で、士気を高め、住民に安心を与える存在でした。ただ、焼ける屋根の上で24m、20kgの纏を振るには、熟練が必要です。
特別展四:類を以て集まる―交遊と創作
江戸後期には、大流行した狂歌(滑稽や機知に富む短歌)を牽引した太田南畝(1749-1823)、異国を吸収し多岐に活躍した平賀源内(1728-1779)、大名家に生れながら一派をなした酒井抱一(1761-1829)、南総里見八犬伝他ベストセラーを生んだ曲亭馬琴(1767-1848)などが吉原などで交友し、広範で複雑なネットワークを形成していました。
初鰹・蝦図 窪俊満画、太田南畝狂歌賛、1808-14。あづさ弓 弥生の末の はつがつほ はやくもわれが 口にこそいれ。江戸者は、初物は何倍もの値段がしても、粋がって食べたものですが、自分はもう食べてるよ、と言ってます。寛政の改革でおとなしい句です。勘定奉行にまでなりました。
酒井抱一は、姫路藩主家を37歳で出家し、雨華庵(根岸・日暮里東側)で、尾形光琳を偲んで、江戸琳派を育んでいきました。
徳川吉宗は、蘭学奨励を行い、平賀源内はそれに乗ってエレキテルなどの見聞を広めました。一方、杉田玄白は、西洋解剖書の翻訳に挑み、3年がかりで「解体新書」「蘭学事始」を完成させ、後世に情熱を伝えました。
日本橋本石町にあった薬種商・長崎屋は、出島のオランダ商館長一行が毎年、将軍拝礼の定宿です。近くの本屋・須原屋から平賀源内も杉田玄白も本を出しており、西洋知識の出入り口でした。
曲亭馬琴は、蔦屋重三郎の手代で、著述を始めました。曲亭馬琴の南総里見八犬伝(1814-1841、全98巻106冊)は、壮大・波乱万丈な伝奇ロマンとして、貸し本によって多くの人に読まれました。挿絵は葛飾北斎。原稿が早稲田大学に残っています。確かな筆の運びで整然と書いてあります。
馬琴が、執筆に28年かけた思いの丈が、膨大な友人への書簡となって綴られ、館内の天井から長く長く、吊るされています。晩年は盲目になり、娘が代筆しました。
讃岐院眷属をして為朝をすくふ図1851年、です。「椿説弓張月」曲亭馬琴著・葛飾北斎挿絵の一連のシーンを、歌川国芳は、3枚続の錦絵の大画面に再構成し、躍動する作品へ昇華させています。
特別展終章:花のお江戸に及ばんや
東都両国ばし夏景色1859年、です。徳川吉宗(8代、1684-1751)が享保の大飢饉(1732)と疫病による犠牲者を悼んで、奨励しました。多くの船と人出で混雑しています。1842年、人の重みで、木橋の欄干が崩れ、死亡者2名、行方不明者3名を出しました。
神田明神祭礼図、江戸後期です。インドからの像も列に並んでいます。
東都名所 高輪二十六夜特遊興之図 歌川広重1832-42。江戸は、もはや武蔵野の原野ではなく、京や大阪を凌ぐ大都市になりました。「江戸っ子」としての意識が育っています。
江戸城無血開城後の帰路の勝海舟像。極貧旗本の出。蘭語辞書を徹夜で写し取って生活に当て、深夜に王子権現を上下し座禅。幕府重鎮が逃げ、陸軍総裁として、前夜、密かに英パークス公使を通じ世界の公論を吹き込んた上で、海軍教習所生徒だった西軍大将・西郷と無血開城を決めました。
維新後も、政府に留まり、福沢諭吉に批判されましたが「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張(行動と責任は自分にあり、他人の批判に左右されない)」とつぶやき、ついに明治30(1898)年、明治天皇夫妻自ら、徳川慶喜の盃に注ぎました。こうして人脈をつなぎ、翌年1月、75歳逝去です。
ミュージアムショップとCafe
1階ミュージアムショップの特別展:大江戸礼賛・缶バッジ450円。
特別展:大江戸礼賛の太田南畝にちなんだ初鰹クッション3500円。
1階にippuku teiというカフェもあります。11席ですが、空いていました。廊下から食べてるところ、まる見え。水飲み場やトイレが少ないです。
抹茶アイス650円(水分?糖分?補給にいただきました)、あんみつ900円。
常設展:6階吹き抜け原寸大コーナー
6階にエレベーターで昇ると、常設展6階では、5階と6階の2階分の吹き抜けになっていて、中央に日本橋の原寸大模型が、半分の長さであります。天井には、空のスクリーンがあって、30分で一日の移り変わりが楽しめます。
橋の上から左側を見下ろすと、歌舞伎・中村座の原寸大模型があって、5階江戸側の展示の入口になってます。高さ26m。リニューアルで歌舞伎座の中も見られます。
反対右側を見下ろすと、銀座4丁目の服部時計店(現・和光)の原寸大があって、5階東京側の入口になってます。こちらも高さ26m。リニューアルで、銀座・朝野新聞社本社から交代になりました。
図でもう一度見ると、6階で入口から空を見上げながら日本橋を渡って、奥の江戸コーナーの最初に行きます。5階に本格的な江戸コーナー(中村座の裏)と東京コーナー(服部時計店の裏)があります。照明が、保存優先で、かなり暗いので、小さな字の解説は、ほとんど読めないのでパスです。
江戸ゾーン:①江戸城と町割り、②町の暮らし、③出版と情報。④江戸の商業、⑤江戸と結ぶ村と島、⑥江戸の四季と盛り場、⑦文化都市江戸、 ⑧江戸の美、⑨芝居と遊里、⑩江戸から東京へ
東京ゾーン:①文明開化東京、②開花の背景、③産業革命と東京、④市民文化と娯楽、⑤関東大震災、⑥モダン東京、⑦空襲と都民、⑧よみがえる東京、⑨高度経済成長の東京、⑩現代の東京。
常設展:江戸コーナー
日本橋(原寸大だが、長さ半分)を渡ると、のれんをくぐると一気に江戸の空気に包まれます。
保存優先のため照明はかなり落とされており、展示室は薄暗い印象です。
江戸城本丸の模型。
大大名の籠(かご)です。この体験試乗コーナーは、すごい列です。外国人は、写真の取り合いに時間がかかっています。
時の鐘です。9カ所に設置されていました。江戸の標準時は、日本橋石町にあり、和時計の機械式時計を使っていました。他はこの鐘を聞き、たたいていました。寛永寺から増上寺と回りました。昼6回、夜6回。不定時法で、例えば間隔は、夏は昼が長く、夜は短いのです。✖1時間=60分。
京都の祇園歳、大阪の天神祭と並び、日本三大祭りと言われた、江戸総鎮守神田祭の行列です。1687年から幕府も費用を負担し、翌1688年からは城内にも入れりようになりました。赤坂・日枝神社からスタートしました。行列には、舶来の像も並びました。2026年は、5月14・15日でした。
大神輿は、高さ227cm、重さ約1トン。一度に約50~70人で担いでいます。何度も交代するので、1チーム当たり約150~400人規模。担ぎ手の熱気が伝わります。
江戸の街並み模型です。表通りには、江戸後期に勢いを付けた町人が、参勤交代の武家地を覗いた半分の土地に、びっしり生活していました。世界一の百万人都市でした。
隅田川の水運模型です。荒川本流、新河岸川と共に、柳瀬川、芝川、石神井川、神田川など重要な支流が多数あり、全体で江戸の物流を網羅していました。全体で毎日1,200隻以上もの船が行きかい、百万都市の食料や燃料の大半を支える大動脈でした。1席で米俵15~30トンを運べました。
エスカレーターで5階に下りると、江戸時代コーナーの入口は、芝居小屋・中村座の原寸大模型です。江戸の芝居文化の中心でした。
芝居小屋の内部に入れるようになりましたが、あの芝居広間ではなく、待合室でした。
魚売りの天秤です。体験の人がかがんでいるように、昔は、男155cm、女143cmでした。平均寿命は30~40歳。両端の桶やかごで30~40kgあり、魚は15~20kg入り、その日に売り切りました。朝顔を季節によっては、運んで売ります。
体験で担げる二八そば屋台です。今の人の体格に会いませんが、それでも、高さ150cm・重さ30~50kgあります。40~50人分のそばが入り、水は近所からもらいました。1杯16文でした。
寿司の屋台もありましたが、酢絞め・醬油漬けの寿司は平台に3種くらい乗っているだけです。現代の2~3倍の大きさで、1口半~2口です。ちょっと小腹を満たすファーストフードの立ち食いでした。1つ4~8文(120~240円)です。高級な卵焼きは、16文です。sushi,noriはもはや英語です。
江戸東京博物館の裏口真ん前に、都営メトロ大江戸線両国駅があって、この清澄白河駅で降りると、深川江戸資料館(江東区白河1-3-28)があって、実物大の江戸の八百屋もあり、季節が変わると旬の野菜の模型もガラッと入れ替わります。音響効果付き。人の解説あり。外国人観光客も2割くらいいます。江戸を堪能するには、このハシゴがいいと思います。
リニューアルで登場した天婦羅屋台です。注文を聞いてから、串刺しておいた芝エビや穴子を揚げ、ごま油の香りが漂う立ち食いの味です。茹で釜は、櫛新井、天つゆ温め用です。
用水井戸と木桶(もくひ)の上水道です。玉川上水が羽村で新宿・四谷大木戸まで多摩川の水を引いたのは、1653年、43km、高低差92m(100mに21cm)です。千川上水は、1696年、境橋(武蔵野市・西東京市・練馬区の境)から分水し、本郷・浅草方面へ引かれました。分水から巣鴨まで22km、高低差40mです。武蔵野台地の穏やかな傾斜の尾根道をたくみに利用しました。
2023年8月の「羽村を歩く!」など各所もに出てきます。
長屋の共同井戸には、必ず、守り神であるお稲荷さんの祠(ほこら)が付いていました。江戸には「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と川柳に詠まれるほど生活に多かったです。家内安全や火災除けの神であり、大家が勧進して、長屋のコミュニティーがうまく行くよう互助・防災の目的もあります。
毎日住民が野菜や食器を洗い、洗濯する一番賑やかな場所で、井戸端会議の語源です。祭りには、ここに住民が酒や肴を持って出て宴会です。
職人の家です。一般庶民がが暮らしていた裏長屋は、六畳(九尺二間)あって、土間があり、居間は四畳半でした。表長屋は、裕福な商人が入居し、通りに面した店舗や、奥に居間もありました。
寺子屋です。識字率は、幕末期で、江戸の町で70~80%以上、全国平均でも60%以上という世界最高水準でした。同時代のロンドン約20%、パリ約10%をはるかに上回っています。寺子屋は、全国で1万5千~5万超の規模で、現在の小学校2万校と同等かそれ以上の密度でした。7~8歳から12~13歳の5年間で、規模もカリキュラムも自由でした。「読み書きそろばん」と実用的でした。
リニューアルで新設された、日本最古の遊園地、嘉永6(1853)年浅草花やしきの正門模型です。当時の敷地2420㎡。茶人・俳人の集会や大奥女中の憩いの場でした。ブランコだけが唯一の遊具でした。維新後、徐々にトラやクマなどの動物展示を開始しましたが赤字続きで1935年に仙台へ売却。1953年から国産初のローラーコースターが登場、だんだん労務者のたまり場となったため、有料化しました。2004年に運営会社を替えて再出発、今は敷地面積5800㎡です。
常設展:東京コーナー
明治28(1895)年に創業した銀座4丁目の服部時計店の外観です。1881年に京橋で開業してから、外国商館からは、優先的に商品を卸してもらえ、急成長し、一等地に進出しました。
明治時代の電球は、とても暗かったです。これは、江戸時代の燈明と同じで、ろうそくの明るさが基準で、10~16ルクスしかありませんでした。現代のリビングが100~200ルクスで、デスクワークで500~750ルクスです。たった1/10から1/50の明るさでした。本など読めません。
明治24(1891年に建てられた)駿河台のニコライ堂です。復活大聖堂が正式名称です。駿河台が標高35mと非常に高い高台で、周りに遮る高い建物がなかったため、東京中から見えました。さらに自身の高さ35mの緑青のドーム屋根と鐘楼をもつ白亜の大聖堂は、合計70mのランドマークでした。
明治5(1872)年の明治の大火の後には、火災に強い、銀座レンガ街が建設されました。
ガラス張りの床下に、明治16(1883)年に、欧化政策のシンボルとして鹿鳴館が落成し、在留の外国人を招いた舞踏会が盛んに開かれました。散切り頭や養殖文化も、徐々に浸透しました。この模型は、屋根が動いて、中の舞踏の様子が見えます。ニコライ堂も同じでした。
体験型では、初めての自転車(固定)に、実車することができます。まだチェーンがなく、スピードを出すためには、ペダル一回で距離を稼ぐため、前輪が大きいです。1.3~1.6mあり、サドルの位置は、この模型より実際は高いです。後輪は直径30~50cm。
1920年代から1930年代へかけて、市内一律1円で運行されたタクシーを、通称円タクといいます。
明治33(1900)年、それまで郵便局や電信局にしかなかった公衆電話を、一般市民が街頭で24時間利用できるよう、「自動電話」が京橋のたもとに初めて設置されました。1927年、市内の電話ボックスが四角へモデルチェンジし、退場しました。体験型で、順番待ちです。
昭和戦前の居間です。ちゃぶ台が中央にあり、家族が揃って食べました。
第二次世界大戦が終盤を迎え、本土空襲が絶え間なくなると、ちょっとした明かりの漏れがB29爆撃機の標的になりました。スイッチはすぐ切りました。東京は、一面の焼け野原になりました。
戦後1960年からは、1ブース10年刻みで流行やCMが展示されています。だんだん普段見ている車や家庭像が増えてきて、みんなの地元博物館でも見られますから、以下、省略します。
帰りはJRと東京メトロを乗り継ぎ、石神井公園までスムーズに戻りました。
自宅の庭と文鳥の新太郎君
カエデの種。プロペラが付き、赤味を帯び、風に舞う準備をしています。こうして、庭のカエデは代替わりしてきました。思いついて、コスモスの種をパラパラ播きました。
南天の白い実。庭の季節がまた一歩進みます。庭の北から南へ種が風で飛び、一挙に巨木になりました。実が房のようで、また、どこかで増えて行きそうです。白い山吹と競争です。
石神井公園のクイーンズ伊勢丹は、ちょっと割高ですが、デパ地下みたいな機能もあって、その突端に置いてあった、奈良いざさの柿の葉寿司5個900円は高かったのですが、朝ランによる脂肪肝消滅のお祝いに、買いました。枯れた柿の葉が巻かれていて、パリパリと香ばしく、絶品でした。
文鳥の新太郎君は、羽替りも終盤になり、体重29g前後と2g増え、朝日が昇ると、声に力が戻って来て、ピーキョロ?と鳴き、「雨戸を開けて、巣洗いする?」と催促してくるようになりました。私の顔に何か苦悶が浮かぶと、すかさず、チチッと鳴いて、ハッと要件を思い出させてくれます。よく私を観察していて、ネット映画で泣いてしまうと、さっと寄って来て涙をすすってくれます。
文鳥の新太郎君は、3月26日にお迎えして6歳になりましたが、少し飛行に力が入らない時が出てきましたが、まだまだ羽毛はツヤツヤして、くちばしも赤い血の色が復活してきました。カメラをしまうと、腕から肩へと飛び乗り、チャチャチャ、チャーチョッ!と耳元でダンス、さえずります。放鳥するとき、いくつかの部屋は自由に行き来できるのですが、いつもそばから離れません。離れた風呂場に歯を磨きに行くと、音もたてず飛んできて、1秒後には肩に止まっています。
このブログは、ウエンツ夫人とJUNさんとたまからのママさんのご厚意によって、リブログされました。
今回も、読んで下さり、ありがとうございました。
どうか、ゆっくり疲れをほぐして、良い時間をお過ごしください。
季節はまた少しずつ姿を変え、 そのたびに、私たちの暮らしにも小さな変化を運んできます。 来月も、その移ろいの中で見つけた風景を、お届けできればと思います。
4年間にわたる東京散歩は、「東京散歩&健康情報・総索引(第3版)」からご覧いただけます。もし、よかったら、フォローもお願いします。(アップするごとに、リンクページが1つずつずれていくみたいなので、気が付いたごとに、直していきます.。ブログ最初「記事一覧」も参照してね)
東京散歩は一つ区切りつきましたが、これからも、身体の変化や日々の小さな発見を写真とともに綴り、誰かの息抜きになるような”灯台のような更新”を続けていければと思います。
7月1日(水)は、月一定期アップです。それまで、どうぞお元気で。じゃ、またね。



































































































