穏やかな父 | harapekorinの他人に頼る介護

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両親が虹の橋を渡るまでの記録
(認知症って不思議)

令和2年11月(父87)令和3年1月(母82)
虹の橋を渡るまで色々遭遇した出来事や珍事件等 
笑って頂ければ幸いです。
投稿内容に不適切な言葉がありましたらご了承ください。

登場回数の少ない父

 

父は本当に穏やか過ぎて認知症になったのが

いつはてなマークなのかも不明ニヒヒ

家族を忘れる事も自宅にいる間はありませんでした。

床屋に行ってもちゃんと行って帰ってこれる(5分ほどの距離)

大きな通りを渡って行ってましたがそれでも帰ってこられない

など迷子もありませんでした。

いつものルーティーンは家の周りを廻る事

タバコもこっそり吸っていて私に見つかると手の中に上手に

隠していましたが、火傷や火事の方が心配で滝汗

やめてくれないかと思う日々でした。

朝は必ず起きてからガス台でお湯を沸かす。

沸かしていることを忘れて自動停止作動で消える。

音の出るやかんは上手に音が出ないように壊す笑い泣き

そんな器用な父でした。

父は若いころオーダーで作る靴屋さんへ修行に行き結婚後

念願の靴屋を開店、しかしうまくいかず閉店

そりゃ~実家の通りに3軒靴屋あれば無くなりますよアセアセ

母がやりてだったので借金も返済したと話していました。

私が生まれた頃は既に店は辞めて母は内職で靴を手で縫っていました。

なので革靴が出来上がる工程を毎日目にしていました。

なかなかな力で縫うんですよね~

知っている方は靴のお直しはやっていたので玄関に修理依頼の靴は置いてありました。スニーカーハイヒール

私も学生の頃や革靴は特に知らない間に磨かれているのが普通でした乙女のトキメキ父が磨いてくれていたんですお願いありがたや

ここから本題ニヤニヤ

父はいつからかケアマネさんやヘルパーさん、自宅に来る人や自分の事を聞かれる人には靴屋時代の話をしました。

靴屋世代よりサラリーマンの方が長かったと思いますが自分が1番良い思い出なんだと思います。

楽しそうにずっと同じ話をしていました。

聞く側も何度も聞く話ではありますがその度付き合ってあげてましたが、忙しい時は私が「その話何度も聞いた真顔」とストップさせました。お仕事にならなくなりますからねニヒヒ

父は私と顔を合わすと

「お・来てたのか」と言い、私が席を外したり父が席を外して再度私を見ると

「お・来てたのか」と何度でも同じことをやります笑い泣き

なので 娘「来てたよ」と何度も言いますおいで

父とはこんな感じで穏やかに絡んでました。

母とは全く違うので認知症と言っても本当に同じ症状ではないので対応も色々ですね。

 

とは言え父も何度かは手がかかったエピソードはありますので

また次回にでもニヤニヤ

 

 下矢印とても貼りやすかった