恩師 永井譲治さんの命日に寄せて〜2,000人のアナウンサーを生み出した私たちの父 | 原元美紀 オフィシャルブログ 「原元美紀のミキペディア」 Powered by Ameba

恩師 永井譲治さんの命日に寄せて〜2,000人のアナウンサーを生み出した私たちの父

今日9月3日は、私の恩師の命日である。

 

2008年に亡くなったその方のことを以前記したのですが、

過去のHPが読めないので、ここに転記します。

 

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今回は少し長くなるが、一人の男の人生を書き残そうと思う。
 
世に2,000人ものアナウンサーを誕生させたその人の名は、

永井譲治という。
 
彼は昨年9月3日、52歳という若さで天国へと旅立った。
 

 
永井譲治さんの原点は、

東京・恵比寿にある東京アナウンスアカデミーである。
 
私が永井さんご本人から聞いたところによると、

大学時代アナウンサーを夢見てスクールの門を叩いた永井さんは、

授業を受ける傍ら、

スクールで教務のアルバイトを始めたのだという。

残念ながらアナウンサー試験には合格せず、

自分が相談に乗ってあげた同僚や後輩の生徒は

どんどん合格していった。
 
「自分がアナウンサーになるよりも、

アナウンサーになれるようアドバイスをする方が

自分には向いていたようだったんです」
 
アルバイトのつもりだった教務の仕事が、

自然と本職になっていた。
 

 
東京アナウンスアカデミーは、

古館伊知郎さん、吉田照美さん、

永井美奈子さん、笠井信輔さん、

福島敦子さん・弓子さん姉妹など、

卒業生には有名なアナウンサーの名前がズラリと並び、

私が通っていた1991年頃でも、

日本のアナウンサーの70パーセントは

アカデミーの卒業生だというほどの実績を持つスクールだった。
 
しかし、授業の質よりも何よりも、

永井さんが集める全国の放送局の試験情報と

的確なアドバイスが

多くのアナウンサー試験合格者を産み出したことは、

合格した本人たちが認めている。
 
  
私が永井さんと出会ったのは、大学3年生の秋だった。
 
アナウンスアカデミーを大学の就職課で紹介され、

週に1回のレッスンに通い始めた。

3ヶ月ほど経ったころ、試験が近くなり、

一度アカデミーの教務課で永井さんという方と面談をするよう

張り紙があったため、

何の気なく予約を入れてみた。
 
カウンセリングルームで待っていたその人は、

人生で初めて会うタイプの人だった。
 
「ラーメン大好き小池さん」のようなクルクル天然パーマ、

鼻の上にちょこんと乗っかった銀縁メガネ。
 
その向こうから小さな目が笑いかけ、

聞き取れないほどのか細い声で

「どうしてアナウンサーになりたいのですか?」と問いかけ、

じっと静かに私の答えを待っている。
 
手元のノートがチラリとのぞけ、

書き込まれた字を見て、これまた驚いた。

ふっと息を吹きかければ消え入りそうなほど薄く、

まるで米粒に書くかのような小さな小さな文字が

整然と並んでいたのだ。
 
果たして目の前の人物はこの世に存在するのだろうか・・・。
 
空気を感じさせず、

男でも女でも大人でも子供でもなく

そっと優しく佇むその姿が神秘的で、

「56億年も待たずに降りてきた弥勒菩薩だ」

と不思議な感想を持ったことを今でも覚えている。
 
きっとこの人は、

よそいきの「志望動機」を聞きたいのではなく、

私自身のことを受け止め、包もうとしてくれているのだと感じた。
 
私は、これまで誰にも話せなかった

自分の夢、悩み、家庭のこと、生い立ち、

抱えているコンプレックスや何もかも、打ち明けていた。

気づくとものすごい涙が流れていて、

「誰にも私のことなんか判るわけない」

と突っ張っていた意固地な態度が洗い流されていた。

目の前の人は口を挟まず、

ただ最後までずっと静かに聞いてくれた。
 
話し疲れて泣き疲れて、私が自分をさらけ出した後、

初めて口を開いた。
 
「あなたアナウンサーになれますよ。」
 
そして、

 

大丈夫ですよ~♪ 

 私が応援します。」

 

と初めて聞いたときと同じ甲高い声で言いながら、

握手を求めてきた。

ギュッと握ってくれた手は、

薄い文字からは想像も出来なかったほど、

びっくりするような強く確かな温もりだった。
 
 
その日、永井さんに

「夜になったら駅前の居酒屋に行きましょう」

と誘われた。
 

その店の扉を開いた瞬間から、私の青春が始まった。

 

店には学生だけではなく、

スクールOBのアナウンサーも達も集まっていた。
  

携帯電話のなかった時代、
全国に散らばった現役アナウンサーたちが

「ここに来れば永井さんに会える」

ことを楽しみに、約束ナシで訪れるのだ。

私たち生徒たちにとっても、

現役アナウンサーの先輩たちの話を間近に聞けたり、

就職相談にも乗ってもらったり、

駅前の居酒屋は、まるでアナウンサー専用サロンと化していた。


第二の校舎と呼ばれるこの場こそ、真骨頂だった。

 

(中央の赤い服を着ているショートカットが私)
 
「私は毎日ここにいますから。会いに来てください」
 
永井さんは365日休まず、

亡くなる前の晩まで20年以上この店に通い続けた。

永井さんの一日は居酒屋で終了ではない。
 
深夜帰れなくなったり、

まだ語り足りない生徒やOBたちを自宅アパートへと泊めていた。

私も学生時代一度だけお世話になったことがある。

 


世田谷区代沢の『民宿永井』の
決して広くない一人暮らし用のアパートの台所では、

マグカップにギュギュウに押し込まれた色とりどりの歯ブラシが

花のように咲き乱れていた。
 
面食らっていると、一緒に泊まった生徒から、

「はい、原元さんの分」

と新品の歯ブラシを渡された。
  
『民宿永井』に泊まると歯ブラシが与えられ、

次回の宿泊のために大事に保管されるのだ。
 
恐る恐る見ると、

歯ブラシに「永井美奈子」「有賀さつき」など、

今をときめく女子アナの先輩方の名前が油性ペンで書かれていた。

(やくみつるさんが見たら羨ましがることだろうな)
 
「何本あるんですか?」
「さあ、100本は超えていますねぇ(笑)」
   


(永井さんを連れ出そうと箱根旅行計画)
 
永井さんにはプライベートはないのだろうか。
 
「私は結婚どころか、お付き合いしている女性もいません。
 きっと生涯独身だと思いますが、

 老後は独身者ばかりを集めて、

 みんなで支えあう『愛のある老人ホーム』を作りたいですねぇ。

 フフフフ。」
 
と声を上げて笑った。
  
   
その3ヶ月後、私は永井さんの

「大丈夫ですよ~」

という励ましを信じて突き進み、

名古屋のCBC中部日本放送から内定をもらい、

アナウンサーになる夢を叶えることが出来た。
 
4年が経ち、私がフリーになって東京に戻るときに

オーディションの紹介をしてくれたのも永井さんだった。
 
日本テレビの「は~い!朝刊」という

読売新聞の刷り上ったばかりの紙面を元に構成された

ニュース番組のキャスターだった。

CBCでは諦めていた報道への道が切り開けた。
 
 
1999年、永井さんは長く勤めたアナウンスアカデミーから独立し、

東京アナウンスセミナーというスクールを設立した。

中目黒の駅近くの5階建ての雑居ビルの1・2階が校舎だ。
 
「ひとつ屋根の下」と永井さんが呼ぶほど規模は小さいが、

毎年キー局をはじめとする各地の放送局への内定者が

ここから産み出された。

フジテレビの本田朋子さん、日本テレビの宮崎宣子さん、

「めざましテレビ」お天気お姉さんとして大人気の皆藤愛子さんも

このスクールで学んだ永井さんの生徒たちだ。
  
  
実は永井さんにはアナウンサーになる他に

もうひとつの夢があった。

それは本を書くことだった。
 
尊敬するお父さんが文筆家だったそうで、照れながら

「いつか私も何か書いてみたいんです」

と語っていたが、ついにその夢を叶えた。




「いまを生きる」というタイトルは、

永井さんが一番好きな映画だった。
 
この映画を観たばかりの永井さんは、

いつもの居酒屋で珍しく興奮して語っていた。
 
  「教育者の在り方とはどういうものか、

 私に教えてくれた映画です!
 私の迷いが消えました。」

 
 
「いまを生きる」というこの言葉は、

その後、永井さんの人生の支えになったようだった。
 
 
ところで、たくさんのアナウンサーを誕生させてきた

永井さんだからこそ書ける

『アナウンサーに必要なこと』が語られているこの本の中に、

ずっと疑問に思っていたことが明かされていた。
 
『なぜ永井さんの声が小さいのか?字が小さく薄いのか?』
 


 

生徒たちへのカウンセリングは365日、24時間休みが無い。
 
『生徒の人生が決まる一瞬まで努力を続けなければならない』

 

出来る限り多くの生徒と話し、

出来る限り多くの生徒のための書類を書き続けたある日、

声が枯れ、手が動かなくなってしまったのだという。
 
その経験から、

なるべく体に負担のかからない話し方、書き方をしなければと

編み出したのが、あのか細い声と薄い字だったのだ。
 
 
初めて明かされた永井さんの愛情の深さに涙が止まらず、

ただただ永井さんへの感謝の気持ちで胸が一杯になって、

本を抱きしめて号泣した。
 
私に仲間と青春を与え、アナウンサーに育ててくれた永井さん。
 
全国のたくさんの教え子が

「永井さんがいなかったら自分はアナウンサーになっていない」とみな同じ気持ちで永井さんに感謝している。
  
他人の夢を叶えようと自分の身をここまで削る永井さんに、

幸せが訪れますように、心から願った。
  

毎年8月13日の恒例だった永井さんの誕生会
 
*
永井さんが天国へと旅立ったのは、

2008年9月3日のことでした。
 
前日も、いつものように居酒屋で楽しく語り合っていたそうです。
 
ただ、2,3週間前から不正脈が出ていたため、

しばらく『民宿永井』はお休みにしていて、

その晩も一人で自宅に帰ったとか。
(もし、誰か一緒だったら・・・)

  
翌日、永井さんが午後になってもスクールに姿を現さないため、

何か異変が起きたのではないかと生徒たちが騒ぎ始めました。

夜8時過ぎ、通報を受けたレスキュー隊が

窓から部屋の中に入ると、

ベッドの脇でうつ伏せになった永井さんの最期の姿が

発見されました。
 
亡くなられたのは、午前5時。死因は虚血性心疾患でした。
 
一月後、永井さんの愛用していた手帳を

見せていただくことができました。
 
昔と変わらない小さな字で一言日記が添えられているのですが、

最後の2週間ほどは、

「胸が痛い。信じられないくらい痛い。」

という言葉が毎日続いていました。

ふとページをめくり、

私が心を打たれたのはこんな言葉でした。

2008.8.29 

「愛のないことばはことばではなく、愛があってことばになる。」
 
 
そして、絶筆となったのはこの言葉。

2008.9.2

 「人を守れる人になりたい。」
 
*

永井さんの突然の訃報を受け、

多くの現役生徒を抱え受験シーズンを迎えていた

アナウンスセミナーを支えたのは、

永井さんと親交の深いOBの先輩たちでした。
 
みなさんアナウンサーとしてのご自分の仕事を抱えながら、

「永井さんの大事な生徒を途中で放り出すことがないように」

と必死で学校の運営を引き継ぎました。

慣れぬ事務や経営、関係各所への連絡、

先輩方の悪戦苦闘が5ヶ月ほど続きました。
 
そして、ようやく落ち着きをみせ、

いよいよ永井さんのお別れ会が催されたのです。
 
お別れ会の写真を撮るのは少しためらわれましたが、

やむなく参列できなかった全国の仲間に伝えたいと

記録することを選びました。
 
2009年1月31日、激しい強風、大雨の中で行なわれた葬儀には、

全国から600人を超えるアナウンサーが集まりました。
 

 

北海道から九州まで、NHKも民放も、テレビもラジオも。
 
「久しぶり」とか、

「まあ、あなたも永井さんの生徒だったのですか?」

などという会話があちこちから聞こえてきます。
 


また、参列は出来なくとも、

様々な方面からお花が供えられました。

 
今日の日を迎えるまで、

誰が来てくれるのか、何人来てくれるのか、
全く予想もつかないまま準備が進められたそうですが、
こんなにも多くの方が心を寄せていて、
永井さんが大事に築いてこられた人と人との絆の深さ、

その奥行きに改めて驚かされます。
  
受付や誘導など運営を手伝うのは、現役の受験生たちです。

 

  
初々しいスーツ姿で、先輩たちを案内していました。
彼らの目に、私たちOBはどのように映ったのでしょうか。

 

会場に展示された、永井さん愛用のコート・帽子・バッグ。
 



スクール開校記念日に送られた寄せ書き。

 

似顔絵入りのTシャツ。

 



壁にずらりと並ぶスナップ写真は、名物の『内定オムレツ』!

 

放送局のアナウンサー試験に合格した生徒は、

仲間やOBが毎日集う居酒屋で、
「内定おめでとう」とケチャップで書かれたオムレツを

プレゼントされ祝福を受けるのです。

生徒たちはみな、この日を夢見てアナウンサー試験に挑むのです。

永井さんが独立されてからの10年間だけでも、

400人の内定者が生まれました。


祭壇ではたくさんの花に囲まれた永井さんの笑顔が

私たちを待ち受けていました。



 
みな白いカーネーションを捧げながら永井さんに語りかけます。

「やっと会えた」と、笑顔の人もいれば、涙が止まらない人も。

 





そして、「思い出のビデオ」の上映です。

 

スクリーンに大写しになった生前の永井さんの姿に、

会場から思わず「わぁっ!」と声が上がりました。



 

ビデオにはスクールの生徒たちと毎年2回企画していた

箱根合宿の様子が記録されていました。

集合した新宿駅で早速おなじみのカメラを取り出し、

記念撮影をする永井さん。

生徒を前に語る永井さん。

「まず隣にいる人を愛せる人になってください。
 それができなければ

 多くの人を愛せるアナウンサーにはなれません」

相変わらずのか細い声なのに、熱い言葉が胸に強く響きます。


そして、浴衣を着てカラオケで

お得意の「マイウェイ」を熱唱する永井さん。

♪  わたしには 愛する『生徒』がいるから 

 信じたこの道を 私は行くだけ
 すべては心の 決めたまま



上映の後、染谷恵二さん(フリー・元RFラジオ日本)が

同期を代表して「お別れの言葉」を送られました。

染谷さんのお話からは、私たちの知らない、

永井さんの若い頃のエピソードを聞くことが出来ました。

永井さんは学生当時からカラオケが大好きで、

「青春時代」が十八番だったそうです。

スナックで他のお客さんが歌っていても、

一番最後のフレーズはマイクを奪い取って

涙を流しながら叫ぶように歌っていたそうです。

♪  青春時代の 真ん中は 道に迷っているばかり
 
そんな永井さんの姿をいつも見ていた染谷さんは、

「彼は自分の人生を見つけられず迷いを感じているのもしれない」

と思ったそうです。
 


しかし、永井さんの十八番は、

いつの間にか「マイウェイ」に変わっていました。

今回ビデオで見て驚かれたそうです。

「譲治君、君は、ちゃんと自分の道を見つけたんだね。」

そう言って、安心した表情で微笑まれました。
 

 

永井さんは生前たくさんの言葉を遺していました。

 

それは、スクールの生徒たちに一斉配信される

メーリングリスト 『オムレツメール』 です。

激励の言葉やアナウンサーの心得が語られたメールのいくつかが

朗読されました。

 



「とても順調なときや不遇なときの人間性です。
 人はそんなとき、自分しか見えなくなることがあります。
 ですが、本当に偉大な人になられる人はいつも変わりません。
 どんなときも人を気遣える、愛せる、人としての幅や深さ、

 強さを持った人間です。
 将来アナウンサーとして大成される方も、そんな人です。」


 
「私は24時間体制です。
 あなたたちの苦しみを半分受け持たせてください。

 命をかけて見守っています。

 では、今日が皆さんの人生にとって最良の日でありますよう、

 心からお祈りしています」
 
まるで、聖書の福音のようでした。

 
「命がけ」という言葉が何度も何度も使われていました。

今の時代、自分の命がけの気持ちを受け止めてくれる相手が

どれだけ見つけられるでしょうか。

でも永井さんは見つけたのです。

その証拠に、永井さんのメールを朗読する現役学生は、

まっすぐ前を向いて読み上げているではないですか。

原稿を見ずとも、覚えてしまっているのです。

ちゃんと永井さんの言葉が届いているのです。

永井さんの決して長くない人生が

幸せに包まれていたことを感じて、

嬉しくて涙が止まりませんでした。

* 


お別れ会が閉会すると、当然のように例の居酒屋へ。
いつものように飲みながら語るOBと生徒たち。
 
みな、いつものように

「永井さんがいなかったら自分はアナウンサーになっていないよ」

と口にする。
 
壁にはまるであつらえたかのように

すっぽりとはまり込んだ永井さんのパネルが、

そんな私たちを静かに見守っていました。



*


実は、微力ながら、私も永井さんへの恩返しが出来ればと、

跡を継いでアナウンサーを目指す学生たちに

指導を行なっております。
  
人に教えるのは難しく、

「自分には無理かも」と思ったこともありましたが、

そんなとき、やっぱり永井さんが残した言葉に励まされました。
 
「アナウンサーになれそうな人には私が係わる必要はありません。
 アナウンサーになれそうもないけれど、

 情熱だけはあるという人をアナウンサーに育てるのが

 私の仕事なんです。」

そうですね。あきらめてはいけませんよね。
 
心あるアナウンサーが巣立ってゆくよう、

また私自身が「心」を大事にすることを忘れないよう、

今出来ることを一生懸命やります。
 

私も、いまを生きます。
  
****************

 

13年前のブログでした。

 

時は経ち、今年、私は永井さんが亡くなられた歳になりました。

  
永井さんを追い越してしまう寂しさも感じますが、

今日から先は、永井さんの生きたかった思いも一緒に

未来へ連れて行きたいと決意を新たにしました。