母の命日に想うこと | 原元美紀 オフィシャルブログ 「原元美紀のミキペディア」 Powered by Ameba

母の命日に想うこと

7月23日は母の命日でした。

{BD0304D3-18FD-40DE-B20E-F260B9E658B7}


最近、アナウンスの教え子に
「いつから話すのが好きになったのですか?」と聞かれ、
そのときはとても一言では語れず、うまく答えられなかったのですが、
やはり母のおかげだと思います。


実は私の母は若い頃腎臓病を患い入院していたので、
私が小学校に上がってからすぐ離れて暮らすようなりました。

{78B3F852-B7E1-4F22-B2B5-0AA78A0D9556}
(小学校の入学式)

1,2年生の頃は滅多に会えなかったけれど、
ある日お見舞いに行った時、
私が来るまで輪ゴムを集めてアヤトリを作って待っていてくれて、
病室のベッドに座り一緒に遊んだことを思い出します。

授業中、教頭先生が血相変えて
「危篤だから!」と呼びに来たことがあって、
意味がよく話からないまま慌てて病院に行ったこともありました。

母の入院中、父は仕事で夜中に帰ってくるのですが、
それが寂しかったかどうかもよくわかりません。

姉と弟の3人兄弟で遊んで過ごしていたし、
父が仕事を抜け出して買ってきてくれるミスタードーナツが大好きだった。

叱る大人がいないのをいいことに、
夜遅くまでずっとテレビを見ていた。

特にドラマや映画。

ある晩、日曜洋画劇場かなんかで
「禁じられた遊び」の映画を見たのを覚えています。

戦災孤児の少女が、出会った少年と一緒に
大人に隠れて動物たちのお墓を作って無邪気に遊んでいる場面で、
「子供たちだけで遊ぶなんて、私たちみたいだね」
と布団を被ってクスクス笑いあっていました。

大人になってたまたま「禁じられた遊び」の主題歌のギター演奏をした
ナルシソ・イエペスさんの来日コンサートに行く機会があって、
その時にこの曲のメロディーが爪弾かれた瞬間、
あの時の切なさがむせ返るように溢れて、
涙が止まりませんでした。

でも、子供だけのお留守番は辛かっただけではありません。

たくさん物語を読んでいたから。

本をめくれば、世界が無限に広がって、
空想ばかりしていたのです。


その後、母は33歳で人工透析をするようになり、
私が3年生になった頃、また一緒に暮らすことが出来ました。

学校が終わって家に帰ると
必ず母親がいることが不思議でたまりませんでした。

そこからの母はそれまでを挽回しようと、
私の学校行事には必ず参加してくれ、PTAまで引き受け、
気づいた頃には名物母ちゃんになってました。

そして、私にたくさんの本を与えてくれました。

名作文学や、江戸川乱歩、漫画の読み方も覚えました。

たくさん映画の話もしてくれました。

「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラの気高さ、
「ベン・ハー」の決闘シーンの迫力、
「赤穂浪士」の大石内蔵助の苦悩…。

母の話が面白く、私も誰かに教えてあげたいと思い、
毎日学校の行き帰りに友達に映画やドラマ、本の話を語って聞かせ、
すっかり話好きになりました。


そして、私もいつか母のようになれることを夢見て、
この歌をよく口ずさんでいました。

「ママのそばで」

中山知子作詞・インドネシア民謡


1.
おいでよ ママのそば
やすらかな ひとときよ
そんなに不思議そうに
何を考えてるの
ねえママ どんなことでも
笑顔で見てて下さる
ママほど素敵な人に
いつかなれるのかしら

2.
おまえの黒い目に
あふれてる その涙
悲しいときは そっと
ママに話してごらん
ねえママ どうか教えて
小さな私の胸に
大きく広がる夢を
どうしたらいいのかしら


残念ながら私には子供がいないけれど、
たくさんの教え子に話してあげることが出来るし、
子守歌だって仔猫に歌ってあげられる。

{5EB080EC-E4E6-412E-A26E-B25BA34E8711}

嬉しいことも悲しいことも寂しいことも切ないことも、
だんだん愛おしい想い出に変わるのですね。