劇団四季「ウエストサイド物語」を観て、『居場所』について思う。 | 原元美紀 オフィシャルブログ 「原元美紀のミキペディア」 Powered by Ameba

劇団四季「ウエストサイド物語」を観て、『居場所』について思う。

劇団四季「ウエストイド物語」を観てきました。


子どもの頃に映画版を観て衝撃を受けて以来、

映画も舞台も何度も見る大好きな作品です。


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ストーリーはもうおなじみですが、

シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の現代ミュージカル版。


1950年代のNYのウエストサイド地区を舞台にしたことで、

甘いラブロマンスというより、

アメリカの差別や貧困という社会問題が加えられた

奥の深い設定となっています。


1950年代のアメリカ・マンハッタンでは、

先に移住していたヨーロッパ系の移民と

後から集住してきた中南米・プエルトリコの人々とが

激しく対立するという、

最近の国際情勢にも重ねられる移民同士の対立がありました。


人種を超えて愛し合うトニーとマリアを軸に

それぞれの不良グループ同志がいがみ合い、

やがて憎しみが殺し合うまでに行きつく悲劇。


劇団四季では42年も上演されてきた記念碑的な作品ですが、

今回、演出・振り付けのジョーイ・マクニーリーによって

新しい演出が披露されました。

どの辺が新しいのかを四季の関係者の方に伺うと、


「少年同士が計画性もなく考えなしに行動した結果、

あっという間に悲劇が起きるという

誰にも止めようのない独特の時間の流れを表現しようと

これまでよりもテンポアップし、20分も短くなりました。


もちろん、セリフや歌はそのままに、

場面転換などでスピード感を出そうとしています」


とのことでした。


なるほど、確かに、

ある晩トニーとマリアがダンスパーティーで出会い、

不良グループ同士の決闘が行われ、哀しい結末を迎えるまで

あれよあれよという間に

愛が生まれ命が失われる出来事が流れていきます。


悲劇の前兆が見え隠れしているのに、


『この悲劇を食い止められる者がいない』


ということが哀しいまでに伝わってきました。




実はこの舞台を観ながら思い浮かぶことがありました。


それは、先日裁判が行われた

「川崎中1少年殺害事件」の法廷でのやり取りです。


被害者の少年の命をどのようにして奪ったのかが詳細に語られ、

あまりの残忍さに胸が苦しくなるほどでしたが、

私が気になったのは以下のやり取りです。


遺族側弁護士の「どうして(暴行を)やめなかった?」という質問に、

リーダー格の加害少年は、こう答えました。


「どうしたらいいか、わからなかったです」

「恐怖心があって、どうしていいか、わからなかったです」


と、自分で始めた行動を、

どう終わらせればよいのかわからなかったというのです。



現場リポーターという仕事柄、裁判を傍聴する機会はよくあるのですが、

実はこの言葉、よく加害者側が口にします。


「途中でやめたいと思ったけど、どうしたらいいかわからなかった」


それを聞く度、もしかしたらトラブルの多くは

『途中で思い止まる方法やその考え方』という点に目を向ければ

最悪の結果を免れることは出来るのではないかということです。



フィクションの作品と実際に起きた事件を結び付けるのは

無理があるでしょうか。


私にはあながちそうは思えません。


リアルな人生で困難に遭遇した時、

お芝居や小説などのフィクションの世界から打開へのヒントを得ることや

登場人物の考え方、行動などを励みにすること

時には反面教師にすることだって出来ると思うのです。


1997年神戸連続児童殺傷事件が起き、

14歳の少年が犯人だったということを知った女優の松たか子さんが、

当時「ニュースステーション」で久米宏さんに

「10代から仕事をしてきた松さんは、

さして年も変わらぬ少年の犯行をどう思いますか?」と聞かれ、


「正直判らない。そして、残念に思う。自分に。」


と答えていらっしゃいました。


意表を突かれる形で始まったコメントは、

このような主旨のことが続きました。


「私たちのやっているお芝居の中には

いろんな人の人生や考え方、人間観関係が表現されていて、

観た人が何かを考えるきっかけになってくれればいいと思っている。


だけど、犯罪を犯すこうして少年たちにはそれが伝わらなかったり、

そもそも観てもらえる環境にないんだ、ということに無力感を感じます」



彼女が絞り出すように語ったこのコメントは

ひとつの真理として私の中に植え付けられました。



「これ以上やったらダメだ」

「どうやって仲直りしよう」


といった基本的と思われていた人間関係も、

実は学び取る機会がない子供もたくさんいて、

大人はそこに目を向けずにただ「仲良くしろ!」とだけ言ったって

なんにもならないのではないかと思うのです。



「ウエストサイド物語」でも、

不良少年たちを取り巻く環境は劣悪です。


移民差別を受け、仕事もなく、

職が見つかったとしても賃金は半分、

親はアル中や放任主義…、

俺たちを社会の病原菌扱いするけれど、

こんな環境じゃ仕方ないじゃないか!

と少年たちは訴えます。


有り余るエネルギーは仲間との結束や、

対立するグループとのケンカに放出されます。


彼らを見守る大人でさえ、

「なぜいがみ合うんだ。お前たちは世の中を汚くしている」

とののしります。


少年たちは

「俺たちにとっちゃ、世の中なんて最初からそんなもんさ」

とあきらめと強がりで言い返します。



そう、「争うな、愛し合え。」というセリフを聞きながら、

「判っちゃいるけど、なぜそれが簡単に出来ないのだろうか・・・」

と思いをめぐらし、気づいたことがあります。


それは、


居場所がないこと。



自分の居場所を確保するために争ってしまったり、

居場所がないと相手を愛する余裕が生まれなかったり・・・。



私自身、自分の居場所がないといつも不安にさいなまれます。


夜中眠れなくなってしまうときもあります。


そのことで、変に意地を張ったり、

舐められたらアカンみたいな狭い考え方になり、

縄張り意識が沸き起こってきます。


こんな了見の狭い自分が嫌だーと叫びたくなりながら、

自分の居場所を探さなきゃという焦りに押しつぶされそうになります。


でも、自分の誇れる居場所があったならどうでしょう。

きっと、心も安定して周りを見渡し、思いやりを持ちながら
やるべきことに専念出来るのではないかしら。


そして、今日舞台を観ていて思いました。

みんな同じなのではないかと。


だったら、

「争うな、愛し合え」という声の掛け方ではなく、

『相手の居場所を尊重することを大切にしてみよう』

とひとつの道標ができたのでした。