CBC草柳伸一アナウンサー、安らかに | 原元美紀 オフィシャルブログ 「原元美紀のミキペディア」 Powered by Ameba

CBC草柳伸一アナウンサー、安らかに

とても悲しいお知らせを受けました。

 
私がアナウンサーとして第一歩を踏み出した
名古屋のCBCで大変お世話になった
草柳伸一さんがお亡くなりになりました。
 
私にとってどのくらい大切かというと、
アナウンサーの『産みの父』です。
 
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1992年、私は名古屋の
CBC中部日本放送に入社しました。
 
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日本初の民放ということで、
伝統や格式を重んじる風潮がありながら、
パイオニア精神が息づいていて、
新しいことやヘンなこともやっちゃおう!
というユニークな先輩の多い会社でした。
 
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アナウンサー研修が始まると、
次々と個性的な先輩方が現れ、
発声・滑舌練習や原稿読み、心構えなどを教えてくれました。
 
そして、ある日、
「おう!」
とチャキチャキの江戸弁で、
輝く銀髪を七三に分けた粋な紳士がやってきたのです。
 
それが草柳伸一さん(58)でした。
 
「今日は『フリートーク』ってのやるから。
なに、難しいことはねぇんだな、これが。
他人が知りたいコトを話しゃあいいんだ。
誰もが興味を持つもの、要するに『秘密の打明け話』だ。
他人の秘密ほど面白いモンはねえな。
 
じゃ、おまいさんたち、これから誰にも言ってねえ話をしてみろ」
 
新人の私たちは顔を見合わせて、軽いパニックでした(笑)
 
「馬鹿だね、なにもホントに秘密を
喋らなくったっていいんだよ。
話の頭に『実は』って、一言付けてみろ。
それだけで聞く方も喋る方もその気になっちまうんだよ」
 
ほっ。
 
草柳さんの先の読めない展開に、
その後も私たちは翻弄されっぱなしでしたが、
慶応BOYで落語が趣味の
いかにも粋でお洒落なダンディズムに
『カッコイイー』と魅せられていました。
 
 
さて、ここで20年も経ったので
関係者もいないしもう時効かな~と、
初めてこのお話をしたいと思います。
 
入社直後から生意気だった私は部長と折り合いが悪く、
デビューしてもレギュラーの仕事が1個もなく、
干されていました。
 
そんな時、こっそり声を掛けてくださったのが、
草柳さんでした。
 
ご自分のラジオ番組に呼んでくださったのです。
 
ありがたかったですねぇ。
 
ほんとうに。
 
そして、軽妙洒脱な草柳さんの喋りを間近で聞いて
ファンになりました。
 
番組の参考にと、
豊橋の落語の会にも連れて行ってくれました。
生まれて初めて聞いた落語で、世界が広がりました。
 
 
そんな草柳さんが、定年まであと1年半というところで、
アナウンス部から異動になりました。
 
それに伴い、番組も降板だというのです。
 
私は、「なんて非情な人事をするのだろう!」
と社長の顔を見たら文句言ってやろうと憤慨しました。
 
すると、なんということでしょう!
 
正面玄関から社長が歩いて来たのです。
ほんとに!
 
「おう、今年の新人か。どうだ?
なんかあったら社長室にでも遊びに来い」
と声を掛けてくださったのです。
 
私はすかさず
「どうもこうもありませんよ!
ちょうど言いたい事があったんです!」
と鼻息荒く返しました。
 
私の前のめりな姿勢に只事ではないと感じたのか、
「じゃあ、今から4階の社長室に来い」と招いてくださいました。
 
こうして社長室でサシで語ることになりました。
 
秘書のGさんは心配そうな顔をしています。
 
社長「で、おみゃあ、なにを怒っとるんだ?」
 
原元「草柳さんのことです。
どうしてアナウンサーのまま定年を迎えさせてあげないのですかっ!?」
と迫りました。
 
「なんだそのことか。
ワシだって、もちろん調整ついているのを確認してから
ハンコついとるんだぞ」
となだめようとする社長に、
 
「それは誰かにとって都合の良い社内政治です。
私はあんなにリスナーに愛されている人を
こんな形で辞めさせる会社で良いのかということを言いたいのです。
お願いです。
もう一度考えてもらえませんか」
 
とにかく草柳さんをアナウンサーに戻して欲しい。
 
こんな非情な人事がまかり通る会社ならクビになったってイイ!
という気持ちで必死に訴えました。
 
誰かにこれほど強く願い出るのだから、
その代償はもちろん覚悟しました。
 
今だったら『池井戸潤さんの小説的な奴』…
思われるのでしょうね。
 
 
果たして、次の人事異動で草柳さんは
アナウンス部に復帰しました。
 
そして、定年まで生涯現役アナウンサー、
定年後もそのまま社友として番組パーソナリティーを続けられました。
 
私の訴えたおかげかどうかは分かりません。
そもそも復帰されることに誰一人として異存はないのですから。
 
因みに私はますます干されました。
そりゃそうだ。
まだなんの実績もないのに、『社長に直訴』。
こんなに扱いにくいオンナは嫌だろう。
 
 
その時、私のアナウンサーの『産みの母』である
大先輩・斎藤悠子さんが、
「ふふ、あなたって私の若い頃に似てるわ。
後先なんて考えずいつも先頭で崖っ淵に立つの。」
 
実は、斎藤さんこそは、
女性アナが年齢を理由に
画面から外されることを不当だとして会社を訴え勝訴し、
六法全書にも判例が掲載されているという
武勇伝をお持ちの方です。
 
…、少しでも似ているのなら光栄です。
 
 
なお、私にもちゃんと救いの手を差し伸べてくださる懐深い方達がいて、
私はクビにならず、なんとかアナウンサーとして
お仕事させていただくことができました。
感謝。
 
(そのお話はまたいつか)
 
 
こちらの写真はラジオ特番で草柳さんと
ご一緒した時のもの。
 
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私がビショビショなのは、
アウトドア・フェアで、カヌーを体験し、ひっくり返ったからです(汗)
 
 
私は4年でCBCを退社しましたが、
お互いこの件に関して話すことは一度もありませんでした。
 
草柳さんは粋をなにより大事にされている方だし、
私も下町っ子なので、ベタベタした馴れ合いは苦手。
 
でも、遠く離れていても、
お互いが「元気にやってるかな」と
思いが通じているのを不思議と感じていました。
 
それで十分。
 
最後にお会いしたのは、19年前。
 
同期の小高直子ちゃんの結婚式です。
 
相変わらずカッコよかった。
言葉は必要なかった。
でも、嬉しくて記念に写真を撮りました。
 
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晩年は地元でFM豊橋に出演されたり、
趣味の落語を極めたりと
悠々自適に過ごしていらっしゃったそうです。
 
そして、今年の3月頃、体調を崩し入院され、
肺炎を繰り返してとうとう9月7日の朝、
静かに息を引き取られたそうです。
 
81歳でした。
 
 
虫の知らせか、たまたま知ることができ、
今日の葬儀に駆けつけました。
 
途中、新幹線の窓から見る富士山は
台風18号の影響で、
不穏な雲が掛かっていました。
 
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しかし、豊橋に着くと綺麗な青空。
旅立ちにふさわしい空です。
 
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約20年ぶりに草柳さんのお顔を拝見しましたが、
安らかで綺麗な表情でした。
 
もうこの世に草柳さんがいないのは寂しいことです。
 
思い出す度、
恥ずかしくないように生きなければと
気が引き締まる存在でしたから。
(そのわりには恥ばかりかいてますが)
 
あんまり泣くと叱られそうだなと思っていたら、
葬儀場でお会いした斎藤悠子さんが
「草柳さん、一度だけ泣いたわよね。
ほら、ご自分が定年を迎えて辞める時の送別会だっけ?
それとも原元さんが辞める時だっけ?」
といたずらっ子のように笑っていらっしゃいました。
 
 
草柳さん、ほんとうにありがとうございました。
産み出していただいて、私も頑張ってますからね。
どうぞ安らかにお眠りください。