体罰は教育ではない。なら、何なのか? | 原元美紀 オフィシャルブログ 「原元美紀のミキペディア」 Powered by Ameba

体罰は教育ではない。なら、何なのか?

体罰について、是か非か多くの人が語っていますが、
私は中学時代、
凄まじい体罰の行われる学校へ通っていました。



朝、門の前で竹刀を持って仁王立ちする生活指導から、
遅刻すると「今日は何日だ?」と聞かれ、
日付の分だけ殴られ、
宿題を忘れたと張り倒され、
廊下を走ったと殴られ、
鼻血を出すなんて普通で、
骨を折ったり、メガネが割れたりが日常茶飯事の学校だった。

入学してすぐに「刑務所みたいだ」と思った。

一年生の時、山中湖への林間学校に
爪に薄いマニキュアを付けて来た女子が、
一晩中物差しで殴られ、
その様子が館内中に実況中継された。

先生は「見せしめだー!」とマイクに向かって怒鳴っていた。

前髪が眉毛にかかったら不良の始まりだと、
首からハサミをぶら下げて、
片っ端から生徒の髪をジャギジャギを切る先生。

恐怖で誰もモノが言えなかった。


親も文句を言うどころか、呼び出され、
「うちの子がすみませんでした」と謝らせられた。


泣き叫ぶ者もいないし、

助けようとする者もいない。


生徒は黙々と耐えた。


すぐに体罰を受けることに慣れ、感覚がマヒしていったから.




しかし、部活は強かった。


単なる区立中学なのに、
多くの部活が文系運動系問わず全国レベル。

もちろん公立だから、
部活のために経験豊かなコーチを呼んだわけではない。

それなのに卓球部は中国遠征に行くくらいだし、
野球部はプロ野球選手を排出したし、
私の所属する吹奏楽部も全国大会金賞常連校だった。


全国の頂点に立つという栄光を手に入れた生徒がたくさんいた。

私自身、部活の充実を求めて越境までして通ったわけだけれど、

やはり自分の経験から、
「体罰は教育ではない」と言いたい。



でも、なぜ体罰が存在したり、
容認されたりするのかを考えてみたい。

オリンピック選手が、
「私は体罰なんか受けなくても(スポーツの)成績が伸びました」
と語っているのを見かけるが、
それは比較にならない意見だと思う。

だって彼らは幼い頃から素質を見出され、
一流の指導陣に恵まれた環境にいたのだから。



では、体罰が必要とされた環境とは
どんなものだったのか!?

私の学校のように、
フツーの生徒をフツーの先生が指導するケースではないだろうか?

そこには理論もなにもない。

ただひたすら怒られないように神経を張り詰める。

文字通り命がかかっていたので、

みなすさまじい集中力を発揮した。


その結果、
実際、部活の成績はかなりの効果を上げたことは事実だ。


この事実をどう受け止めたら良いのだろうか?


当時の私は、

普通の生徒がジャンルを問わず

なぜこんなに出来るのか不思議に思い、

「集中すれば何でもできるんだな~」と感じていた。



そう、体罰が集中力を引き出したのは事実としてあったと思う。


けれど、それが教育かと問われたら、否定したい。



だって私は卒業と同時に廃人になってしまったのだ。

中学で持てるものを絞り切ってしまった。


「高校に行ったら自由だ!」と楽しみにしていたのに、

得られたのは、解放感というよりは、

長い夢から醒め、放り出されたかのような感覚だった。



部活で毎日吹いていたクラリネットなんて、

卒業と同時に見るのも嫌になってしまった。


拒否反応から、指使いも忘れてしまったため、

出身中学の名前を言っても、

誰も全国大会常連だったなんて信じててくれなくなってしまった。



私のように廃人になってしまった生徒は大勢いた。


命を懸けるほどの目標も特別見いだせず、

どうせなにかやっても、
中学時代ほど集中し、良い成績を出せるはずが無いと萎んでしまい、

あれだけの成績を上げたはずの生徒たちが

もったいないことにフツーに戻ってしまった。



私の中学時代は、

一番集中して一番充実して一番結果が出せた時期だと
振り返ることができる。


でも、卒業した後もそれが持続しなければ、

やはり教育ではないと思う。


結局、体罰とはなんだったのか。


教育ではなく、信頼関係でもなく、

カンフル剤であったと思う。


フツーの人がフツーの人を指導する時に

安易に使用されるカンフル剤。



一定の効果を上げた事実は認めるが、

強すぎてもダメ、

効果が持続しなければダメ、

ましてや人の命を奪うなんて問題外。


体罰を受けた生徒のその後を、

自身の体験から思うと、

体罰と教育が同列に語られること自体が疑問である。