<要約>

・一般的に日本の医療関係者は臨床的価値(Clinical Impact)を見極めることが苦手である

・ヘルスケアビジネスでは検査よりも治療分野の方がマネタイズしやすい

・治療分野で最も臨床的価値の高いプロダクトは、現時点で治療が困難な疾患にアプローチできるものか、致死的な状態を改善させられるものである

・検査分野で最も臨床的価値の高いプロダクトは、その検査結果によって治療方針が完全に決まるものである

・パーソナルヘルスケアレコード(PHR)やビックデータを用いて臨床的価値を創造するには、明確なアウトカムの設定が不可欠である

 

図2-4-1. 臨床的価値を生み出すことを想定されずにアウトカムが未設定のまま集められた大量のジャンクデータ

 

<本文>

日本の医学教育では、医療関係者が臨床的価値(Clinical Impact)を評価する教育をあまりしっかりとは受けていません。従って、多くの医療関係者は臨床的価値というものを評価できず、対費用効果や対時間効果の悪いプロジェクトを行いがちです。検査や治療の臨床的価値を適切に評価できるようになるためには、臨床研究等を経験することによって統計学的な評価方法に対する理解を深める必要があります。しかしながら、日本は先進7カ国で唯一この分野の成長が後退状態にあり、Natureという権威ある自然科学系の雑誌でもこの点が繰り返し指摘されているほどです。多くの医療関係者がNeeds-drivenな発想を苦手とする理由も、臨床的価値の見極めができないことがその一因であると考えられます。

 

一般的に言って、ヘルスケアビジネスでは予防を含む治療関連サービスの方が検査関連サービスよりも高く評価される傾向にあります。これは、臨床的価値がそのままマーケットサイズに反映されるからだと考えられます。さらに言えば、治療分野で最も臨床的価値の高いプロダクトとは、現在治療が困難な疾患にアプローチできるもの、又は致死的な状態を改善させられるものだということは容易に想像できることと思います。

 

ヘルスケアサービスの臨床的価値の高さは医学的根拠に基づき判断されますが、それだけでなくそのサービスがサービス提供者の「行動変容にどの程度結び付くか」ということも大事な要素です。例えば、治療系サービスであればその効果が高ければ医師は新しい治療サービスに乗り換えるでしょうし、検査系サービスであれば疾患が一発で同定できる検査程、その検査の結果を受けて医師が治療方針を決めることが容易になります。当然ながら臨床的価値が高いほど、高価格でのビジネス展開が可能となりますが、最終的なサービス導入の判断は対費用効果等を含めた総合的なものになることは考慮しておく必要があります。なお、話題の特性上本項ではある程度専門的な話をせざるを得ず、やや難解な用語も出てきます。また、以下の説明ではわかりやすくするために若干科学的に正確性に欠く数字や表現を使っていることもご了承ください。

 

始めに治療分野に関して具体例を挙げて臨床的価値と対費用/対時間効果の説明をしていきます。私の専門とする病気に高血圧という疾患があります。アムロジピン(5mg)と呼ばれる高血圧の薬がありますが、この薬の使用によって血圧を10mmHg程度下げることができます。この薬の価格は1錠約20円程度です。毎朝服用して1ヶ月を30日とすると薬の費用は、月600円程度の経済的コストという事になります(簡単にするために薬の価格だけを考慮します)。また、薬の服用にかける時間を考えると1日2分もあれば服薬できますので月に1時間程度の時間コストがかかる計算になります。一方で、血圧が高い人向けに食事や運動療法を提供するスマートフォンアプリがあるとします。多くの場合、食事運動療法だけでは毎日1時間程度の時間をかけても血圧を4mmHg程度しか下げられません。ここでは月600円でこのサービスが利用できると仮定します。そうすると①臨床的効果は10mmHg 対 4mmHgで薬物療法の方が2.5倍の得、②経済的コストが同等、③時間コストは 1時間対 30時間で薬物療法が30倍の得となります。ヘルスケアサービスを考える際には、このように臨床的価値と対費用/対時間効果についても考慮した上で、それが市場に受け入れられるのかを考えておく必要があります。

 

勿論、臨床医学ではもっと複雑な要因が絡んでくるため、必ずしもこのような単純な考え方が当てはまらない場合もあります。食事運動療法支援アプリとの比較は保険医療機関を受診した場合の治療効果と費用/時間コストを比較対象とすべきかもしれません。しかし、後述の通り将来的なセルフメディケーションの流れを考慮した場合、自分の作成するサービスの競合相手がどのようなレベルのものであるかを考えるという意味では、決して非現実的な比較にはならないと考えています。

 

「薬を飲みたくない人はどうするのだ」という意見が聞こえてきそうですが、海外ではこのような感情論で政策や治療方針が決まることは稀です。ロジカルに判断して、臨床的価値と対費用効果の高い治療法が推奨されるため、感情論に基づいて作られたプロダクトはマーケットが非常に限定的になってしまいます。

 

次に検査系技術として私が臨床的価値を出しにくいと考えるオミックス(Omics)の中から、遺伝子の変異を網羅的に調べるゲノムワイド関連解析と呼ばれるビッグデータ解析について議論します。ゲノムワイド関連解析は、癌や生活習慣病等に関する遺伝子診断キットの基本技術になっています。この技術では人の遺伝子に存在する一塩基多型と呼ばれる遺伝子変異を数十万~数百万個程度網羅的に調べます。生活習慣病等の多遺伝子疾患では一塩基多型が病気の発症頻度を1.1倍程度増加させることが多いです。私の専門としている心筋梗塞では15個程度の疾患発症関連一塩基多型が同定されています。すなわち、心筋梗塞に関連する15の一塩基多型が全て存在する場合には、最大で1.1の15乗の4.2倍の心筋梗塞発症リスクがあると評価できるということになります。

 

実はこれ、「あなたはタバコを吸っていますか?」という質問で得られる情報量と同じなのです。喫煙していれば大体4倍ほど心筋梗塞の発症リスクが増加するということが分かっています。したがって、この例では心筋梗塞に限った話をすると、この短い質問で得られる医学的情報量とゲノムワイド関連解析の検査キットを使用して得られる情報量が同じということになります。さらに言えば、1回の検査に数万円程度の経済コストがかかり、結果がでるまで数日の時間コストがかかります。

 

医師の行動パターンについてはどうでしょうか。もし心筋梗塞リスクの高い患者さんが喫煙をしていれば医師は禁煙を指導すると思います。これは情報取得によって禁煙指導を行うという医師の行動変容に繋がっているため、非常に臨床的価値の高い情報と言えます。質問は無料で、時間も1分もかからない程度のコストで情報収集が可能です。一方、ゲノムワイド関連解析で仮にあなたの心筋梗塞の遺伝的発症リスクが4倍程度になると判明したとして、この情報を元に何か行動変容が生じるでしょうか?現時点で遺伝リスクに介入する根本的な方法はまだありません。少し生活習慣に気を付けようと思う人がいるかもしれませんが、このゲノムワイド関連解析の情報がなんらかの行動変容に繋がることはまずないと思われます。このように、検査系のアイデアでヘルスケアビジネスを立ち上げる際には、その情報を元に行動変容が生じるような臨床的価値の高い検査になり得るかどうかを事前に検証しておく必要があります。

 

少し専門的な話が続きますが、治療、検査と説明してきましたので、最後は予防領域で注目を集めているパーソナルヘルスケアレコード(PHR)やビックデータ解析に関しても簡単に説明しておきたいと思います。日本では、過去様々な大企業や行政がこれらのデータをなんとか使おうと多くのプロジェクトが生まれてきました。読者の皆様も一度はこの手の話題を聞いたことがあるかと思います。しかしながら、少なくとも私の周りではこれらのプロジェクトから医療従事者の行動変容に繋がるような結果は何一つ出てきていません。実は、大量のデータを解析する際にはアウトカムと呼ばれる目標となる現象の設定が不可欠なのですが、多くのPHRやビックデータ解析関連プロジェクトでは、このアウトカムデータの取得が上手くいかず、すべてのプロジェクトがここでコケているというのが実情です。アウトカムとは、例えば死亡の有無やある病気の発症の有無等のデータを意味します。これらのアウトカムデータの取得には、特定の人物を長期間観察し続ける必要があり、これが非常に難しいのです。多くの場合アウトカムの取得が難しいことに気づくと、最後は包括医療費支払い制度(DPC)のデータを利用しようとします。しかし、DPCデータは保険請求のために付けられた偽物の病名情報(レセプト病名)が溢れており、結局解析に耐えられるような精度の高いアウトカムデータが得られないという結果になります。

 

データサイエンティストであれば至極当たり前の話なのですが、解析データ(変数)の量が増えれば増える程、アウトカムデータの数と精度を保証しない限りまともな解析ができないのです。行政としてはDPCデータがそのような欠陥を抱えているということは表立っては言えませんから、このようなDPCデータの抱える問題を知ることが出来ずに、毎日どこかで誰かが同じアイデアを思いついては同じような落とし穴に落ちて、成果がでないということを繰り返しているのです。もし読者の皆様がヘルスケアデータを集めて付加価値を提供するような試みをするのであれば、アウトカムデータの取得を最初にきちんとデザインしておかなければなりません。アウトカムデータの設定が正しく行われていなければ、結局は臨床的価値創造の出来ないジャンクデータを一生懸命集め続けてしまうことになるだけなのです。

 

以上、ヘルスケアビジネスにおいて臨床的価値を考察することの重要性及びその具体例に関していくつか実例を交えながら説明させて頂きました。本項は少し専門的な話にはなりましたが、これでヘルスケアビジネスを行う上で基本となる3要素に関する説明が終了致しました。これらの記事から、実は多くのヘルスケアビジネスのアイデアが技術起点であり、実現可能性や臨床的価値の問題を抱えており、このような複合的な要因によってビジネスとして成立させることが困難となっていることが理解できたかと思います。したがって、この基本3要素を満たすだけでもそれなりにマーケットの大きなビジネスを展開できると考えられます。

 

次項からはさらに大きなマーケットを狙うための、残りの4要素について説明を行っていきたいと思います。

 

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