普通じゃなければいいけないのか ―「普通」の呪縛― | インディペンデントで行ってみよう!

普通じゃなければいいけないのか ―「普通」の呪縛―


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生きにくさの一因



この国は規格をはずれると生きにくい。


どれほど大国になろうが


個人の大半の意識は村社会の延長にある。


そこに成熟した個人主義はないから


規格からはずれた人間は異端とみなされ


有形無形の圧力を受ける。


いわゆる「普通」からの逸脱には冷たいのである。



普通の標準規格



「普通」とは何か


いい学校行って、いい会社に入って毎日通勤をし


ある程度の年齢になったら結婚して


子供を作り


そしていい年になったら住宅ローンでマンションでも買うという人生である。



これが「普通」の標準規格で


これはこれでいいが


こういう人生を送らない人も多いわけで


そういう人生を選択した人が他者に迷惑をかけず


その生き方を楽しむのであれば、白い目で見られる筋合いはどこにもない。



生き方のダイバーシティ



なぜ規格をはずれると生きにくいのか


自分と同じ選択をしない人間が疎ましいのかもしれない。


個人主義を抑え、集団に帰属しようという規範を乱すものに映るのかもしれない。


しかしどこまでいっても村社会の範ちゅうを超えない意識はもういいんじゃないのか


流行り言葉で言えば


ダイバーシティの時代である。


そろそろ生き方の多様性を認める成熟した社会になってもいい段階だと考える。



どうもダイバーシティというと経営の観点からしか論じられないが


範囲を拡げて社会の在り方、生き方のダイバーシティ(多様性)が論じられてもいいだろう。



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