11月23日エントリーの続きです。
大変お待たせしました!


2009年12月初旬

都内でも屈指のがんセンターの待合室で、彼と二人、2時間以上もじっと待って
いました。きっと待たされるだろうと予測していたので、自宅から本や、DSを
暇つぶしにと持ってきていましたが、文字を追っても、ゲームの世界に入っても、
何一つ頭に響きません。

ただただ、いつもより心臓がざわざわと高鳴って、呼吸が荒くなるばかり。

この時の私の気持ち・・・
「最悪、ガンかもしれない。それは覚悟しよう。とにかく子宮だけ摘出する
手術で済みますように。他の臓器への転移とか、そういうことだけはありません
ように・・・。子宮を取っておしまいでありますように・・・・・・!」


長い長い時間。ようやく診察室に入ります。先生への挨拶もそこそこに、まずは
診察しましょうとなり、恐怖の診察台へ。この時ほど診察台が嫌で嫌で怖いことは
ありませんでした。

内診が始まり、先生の第一声が・・・
「うわ~、これは凄いね。かなり進行しちゃってるな~。」

進行?!やっぱり「がん」なんだ・・・!


「どうしてこんなになるまで放っておいたの?」

怖くて怖くて涙があふれ出てきてしまい、何も応えられない私。

そして、先生とのやり取りの中でも内診が続き、ある時飛び上がるほどの痛みを
感じました。「いた~~~いっ!!!」身をよじり、何とか耐えようとしますが、
あまりの痛さにギブアップ寸前・・・。

「すぐ終わるからね~。我慢してよ~。ふんふん・・・うん。手術はできるな」

は・・・?手術は出来るなって・・・?出来ないとかあるんですか?!
一体どういう事?悪いところ明らかにあるのに、手術が出来ないとかあるの?


地獄の診察台からやっとの思いで降り、先生の話を聞く。

「今日、細胞を取って検査にこれから回すので、はっきりとは言えないけど、
多分、がんだと思います。結構進行していると思われます。気持ちをしっかり
持って、これはしっかりと治療していかないと大変なことになるよ。
1週間後に結果を聞きに来て下さい。この後血液検査をしてから帰ってください」

かなり要約しての表現だけど、こんなことを主に言われた記憶があります。
覚悟していたことだけど・・・まさか・・・がんだとは言え、進行してるって?
どのくらい?もしかして一番心配していた他の臓器へ転移とか癒着とかあるかも
しれないくらいなのだろうか?
どうしよう・・・どうしよう・・・私は一体どうなってしまうのだろう?

短い間に物凄い量の思いが不安が頭を駆け巡る。

分厚い診察室の自動扉が開き、外に出ると、不安げに立って待っていた彼と
目が合う。彼の表情が「?」と、どうだった?大丈夫だったんだよね?
という顔に変化する。

私は思わず首を横に振って、近づいてきた彼に
「だめだー。がんみたいだ・・・」と小さく発することしか出来ませんでした。
その後は、うぅ・・・とたまらない嗚咽になってしまい、泣きながら血液検査を
受けました。

ここは都内屈指のがんセンター。この同じ日に何人の人たちがどこぞの「がん」で
あると告げられるのか。その人たちはそれぞれどんな思いでそれを受け止めるのか

毎日毎日そんな重いものを抱えた人たちの血液を採り続けている検査士の方も、
少し遠慮気味に「大丈夫ですか?」という思いで接してくれたのがわかりました。

この一日から私の大きな戦いが始まりました。
まさかこんなに途方もない戦いになるなんて思いもしなかった・・・。
本当に気が遠くなる思いでした。目の前のカラーが一瞬にして色あせる瞬間を
見ました。

果てしない闘い・・・・・・。

ひとしきり泣いた後は、このことをお母さんにどうやって話そうか・・・
そのことで頭が一杯になっていました。
お母さんがどう感じるのか。考えただけで胸が張り裂けそうになる・・・
言えない。まだ言えない。検査結果がわかったら電話しよう。


仮のがん告知を受けてからは、あまりぐっすり眠れない日々が続きました。
それでも眠れるというところは私の元来図太い性格のおかげかもしれません。

「元気だった」昨日までは、私がベッド、彼がお布団敷いて寝ていたのですが、
「病気になった」その日からは、狭いベッドで手を繋いで寝るようになりました。
人のぬくもりがなければ、とても耐えられない。そんな気分でした。

1週間後。

私と彼はまた長い長い待ち時間を過ごしました。
今度は何も持って行きませんでした。

先生に呼ばれて、説明を受けました。
子宮頸がん1b-2期であると告げられました。しかもがんのタイプは腺がん。
聞きなれない名前のがん。

とにかく少しでも早く治療を必要とする状況。手術をして、子宮卵巣卵管、
骨盤内のリンパ節の切除。その後6クールの抗がん剤治療をします。と説明を
受ける。

「抗がん剤」というワードに過敏に反応してしまう・・・
え?抗がん剤は絶対にしないといけないの?抗がん剤したら髪の毛が全部抜けて
しまうじゃないですか?!

「抗がん剤」と言葉にした途端、涙がポトリと落ちてしまう。

またしても、大きく一歩、大事になっていく。まさかまさか35歳の私が本当に
本格的ながんとの闘いをしなければならなくなるなんて・・・。


でも、ここまできたら、もう逃げるわけにはいかない・・・。
これまで色んな言い訳をして、頸がんだったことを否定し続けていました。
神様が、今まで見逃してきたのだから、ここでしっかりケリをつけなさいと
言っているような気がしました。


先生は、治療に当たって三つの提案をしてくれました。
一つは、この病院で手術、抗がん剤を受けること。期間は半年ほど。
二つ目は、実家のある札幌で治療を受けること。
三つ目は、元々お世話になっていた病院で治療を受けること。

先生は、この治療は決して一人で乗り越えられるものではないと言いました。
当時独身だった私が、東京で一人で治療を受けるのは難しいと。
だったら、両親の元で受けるのも一つ、もし東京で受けるなら、誰かしっかりと
支えてくれる第三者が必要ですよ。と。
婦人科医として、これまで様々な患者さんのケースを見てこられたのでしょう。
特にナイーブな問題を抱える婦人科の病。これによって壊れてしまった絆も
いくつかあったのでしょう。

でも、この時私ははっきりと「支えてくれる人がいます」と先生に伝えていました。
彼となら乗り越えられる。その確信がありました。

「その方は信じられる方ですか?」という先生の質問にも、「大丈夫です。信頼
できる人です」と答えました。

今度こそ乗り越えられる・・・。
5年前の私自身を思い出していました。5年前なら決して無理だった。
孤独だった5年前には子宮の全摘出はとてもじゃないけど乗り越えられなかった。
けど・・・今なら私の隣にはしっかりと支えてくれる存在がありました。

もし、治療をここで受けるのなら、たまたま今日手術室のキャンセルが出たので、
来年1月13日に出来ます。ただ、手術を待っている患者さんが沢山いますので、
4日後までに返事を下さい。そして、以前通っていた病院からカルテを持って
来て下さい。

このように先生から説明を受けました。
1月13日・・・もう1ヶ月もないんだ。差し迫った自分の状況に押しつぶされそう
になったけど、とにかく前に進むしかありませんでした。


帰り道。

意を決して母親に電話をしました。つとめて冷静に事情を説明しました。
母は、一瞬にして声色が震えて緊張したものに変わりましたが、
「わかった。すぐにそっちに行くように準備するから」と、気丈に対応してくれ
ました。この母親の態度に物凄く救われました。。。
勝手な言い分なんだけど、こういう時に、一番心配かけたくない親に、動揺されたり
取り乱されたりするのは耐えられないと思っていたので、起こってしまったことは
仕方がない。それをどうやって対処するかどうかだという、母の強い考えに
私は助けられました。

そして、その後、以前通っていた病院の先生にメールをしました。
先生も、何も言わずにすぐに診察の手配をしてくれました。
2日後に、通い慣れたはずだった病院に行きました。すると、病院の中で婦人科の
場所が移動になっていました。その変化も知らないまま・・・
どれだけ足が遠のいていたのか実感させられてしまいました。

主治医の先生は、すぐに診察をしてくれました。
言葉はあまりないまま、迅速に処置をしてくれて、痛みもほとんどなく終わりました。
とても安心している自分がいました。
「うん、これは手術が必要だね。どうする?手術、するよね?」
カーテン越しに言う先生に、「ハイ、お願いします」と素直に応じていました。

偶然なのか、なんなのか、元々通っていた病院でも先生が言ってきた手術の日程が
1月13日でした。

大きく動き出した流れに一気に乗るべく、私は手術を決めました。
元々お世話になっていた先生にお願いすることにしました。場所はちょっと移動に
なってしまったけど、何も変わらない病院と、先生に、正直かなりホッと
してしまったのが本音でした。

主治医の先生からも、まずは子宮頸がん1b-2期で間違いないだろうと話を
受けました。手術は広汎子宮全摘出。5時間から6時間かかると言われました。
卵巣の温存は、色々詳しく検査をして、更にお腹を開けて肉眼で確かめて決める
ことにしようとも言われました。
抗がん剤などの追加治療についても、リンパへの転移の有無にもよるので、
とにかく時間がないから、年内と年始にMRI、CT、PETなどの精密検査を
急ぎ足ですることに。

クリスマスもお正月もない、慌しい年末年始を迎えることになりました。
2010年の幕開けは、とてつもなく緊張したものになってしまったのです。
寅年。年女なのに・・・。

今後は、手術の話や抗がん剤の話、その他闘病中に感じたことや気づいたこと、
またエントリーしますので、待ってて下さいね~。