ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。
この火曜礼拝ブログは
この火曜礼拝ブログは
川奈聖書教会・火曜礼拝における
山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり
オリジナルの説教とは多少、
異なることをご理解下さい。
■「恵みによって遣わされる」ルカ9:1-6
1.12弟子の派遣
今晩の個所は12弟子の派遣と呼ばれる個所です。
イエス様は12弟子を伝道のために派遣された。
これまで弟子たちはイエス様の周りにいて、イエス様の説教を聴き、
イエス様の為される力ある業を見ておりました。
驚きに包まれていたと思います。
自分たちは何とすごい先生にお仕えしているのだろうという
喜びがあったと思います。
そう言う弟子たちにイエス様は、
今度はあなたたちを遣わします、そう言われた。
イエス様にお仕えするようになってどれだけの日数が経っていたか。
一年くらいでしょうが。
彼らはこのイエス様のご命令に大いに戸惑ったと思います。
初めてイエス様のことを人に話す、伝道する時、
非常に緊張なされることと思います。
だ私には早い、無理だ、そう思ってしまう。
12弟子のリーダーだったペテロは、この後もう少し私たちが
ルカ福音書を読み進めていきますと、
やがてある失敗から「下がれ、サタン」とそう言う
恐ろしい言葉でイエス様に戒められる場面が出てきます。
また、イエス様の十字架を前にして「誰がいちばん偉いだろうか」、
そんなことを弟子たちの間で議論していたという記事が記されています。
そして、皆さんよくご存知のように、
イエス様がゲッセマネの園で捕らえられた時、
弟子たちは一目散に逃げていくのです。
そう言う弟子たちです。
人に福音をのべ伝える前に、まず己自身が良く弁えるべきではないか。
悔い改めを説く前に、まず彼ら自身が悔い改めるべきではないか。
そう考え出すならば、弟子たちがこの時期に
主イエスに遣わされるということに違和感を覚えるのであります。
しかし6節を見ますと
「十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、
いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。」
そう書いてあるのです。彼らの伝道活動は成功したのです。
確かに成果が上がった。
彼らの働きによって救いに預かった人々がいたというのです。
これはとても不思議なことではないでしょうか。
福音をのべ伝えている彼ら自身が、福音を理解していなかったのです。
悔い改めがまったく不十分なのです。
それでいて、そう言う彼らの働きによって多くの人々が救われていった。
主に召された伝道者が何がしかの事情で、
その働きから離れていくと言うことがあります。
率直に言って、私どもの教団においても数年に一度くらい
牧師戒規が執行されることがあります。
そのようなケースで無く、心身を病んで休職し退職される先生もおられる。
皆さんがキリスト者として信仰生活を歩んでいかれる中で、
自分が誰誰牧師に洗礼を授けて頂いたということは
忘れることが無いでありましょう。
そして、いつまでも自分に洗礼を授けてくださった牧師を
信頼し尊敬することができたら、それは幸いなことであります。
けれどもそうではないケースというのもこれは現実として幾らでも起こる。
皆さんの中ですでにそういう思いを経験された方々もおられるわけです。
時には、自分に洗礼を授けてくれた牧師の躓きゆえに、
自分自身の救いや洗礼が無効になったような気持ちになることもあるでしょう。
時には「私はもう一度洗礼を受けなおしたい」
そういう希望を持たれる方もいらっしゃる。
しかし教会はだからと言ってもう一度洗礼を授けるという事を致しません。
そんなことをしてはいけない。
牧師がその後どんな極悪人になろうとも、
授けられた洗礼の価値・効力というものはいささかも揺るぐものではありません。
その理由は明確。洗礼を授けて下さるのはただ一方的な神様の働きであるからです。
神様の働きに促されて、その時その場所にたまたまいた牧師が
洗礼を授けるだけのことなのです。
誰の手によって渡されたものであっても、
それは神様がその時に用いられたご自身の道具に過ぎない。
与え主である神様だけが重んじられるべきである。
ですから逆の意味において、どんなに尊敬する、
素晴らしい牧師によって授けられた洗礼であったとしても、
そこで人を見てはいけない。
ただその牧師を用いて救いの印を与えてくださった
神様だけを覚えるべきであります。
この後、沢山の失敗をし、イエス様を捨てて逃げる、
そう言う経験をする12弟子が、ここでイエス様に遣われて行く。
しかも彼らの伝道活動によって、人々が救われる、癒される。
不思議なことです。
そして彼らがこの不思議に気が付いたのは、
ずっと後のことであったろうと思います。
ゲツセマネでイエス様が捕らえられた時弟子たち逃げ出した。
そしてイエス様は捕らえられ十字架に架かって死なれた。
そして3日の後に蘇りになられ、もう一度弟子たちの前に現れるのです。
その時イエス様は弟子たちに何と言われるでしょうか。
今晩の箇所と同じように、もう一度弟子たちを派遣されるのです。
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受ける者は救われます。
しかし信じない者は罪に定められます。」、
もう一度イエス様は弟子たちを遣わされるのです。
その時に、彼らはきっとこの9章の出来事を思い出したと思います。
そして気が付いたと思うのです。
「ああ、あの時私たちが相応しいからイエス様は遣わされたのでは無い。
こんな私が語った御言葉で、あの時何で人々が救われたのだろうか。
あれは私の力じゃなかったのだ。
悔い改めを説く私自身が、悔い改めなければいけない
不信仰の種を宿したまま遣わされているのだ。」
そうして始まった弟子たちの宣教活動というものは、
謙遜なものだったと思います。
謙遜にならざるを得ない。
悔い改めを語っていた自分自身が悔い改めるべき者だった、
そう言う今晩の箇所における経験。
彼らには振り返って初めて気づくことだった訳ですが、
自分たちが何も分かっていない時に語った言葉、
しかしこの言葉に確かな力があった、これは神様の働きだ。
こう言う信仰が土台となって世界中に福音が広まっていったのです。
私たちも同じです。私たち一人一人が神様からいつも遣わされていく。
礼拝を終え、それぞれの持ち場・立場に遣わされるのです。
私たちが生かされている場所は、神様によって派遣された場所である。
そこで、私たちはキリスト者として神の御心を現し、福音を語り、
神の国を前進させていく務めを与えられている。
けれども、そういうことができるのは、
もう少し自分がクリスチャンとして成長してからでないとダメだ。
こんな私がキリスト者であると名乗ったら教会の看板を汚してしまう。
そんなことを考えてしまう思いが誰にでもある。
けれども私たちはすでに8:16でイエス様の御言葉を聞いたのです。
16節「だれも、明かりをともしてから、それを器で覆ったり、
寝台の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。
入って来る人たちに、その光が見えるようにするためです。」
この燭台に灯りをともしてくださったのはイエス様である。
だから、イエス様にともされた燭台を寝台の下に
置いてしまうことではいけない。
同じように、イエス様が遣わしてくださる。
不十分な者であるけれども、イエス様が用いてくださる。
ですから私たちは大胆に、遠慮しないで
キリスト者として自らを現していくべきである。
後の責任はイエス様が取ってくださる。
相応しくなってから始めようと思ってはいけないし、
そんな時は来ない。
私たちは今キリスト者として、光として、
イエス様にともしていただいた灯りとして出ていくのだ。
そのことを覚えたいのです。
イエス様は3節でこのようにも言われました。
「旅には何も持って行かないようにしなさい。
杖も袋もパンも金もです。また下着も、
それぞれ二枚持ってはいけません。」
2つはいらない、一つで十分。
つまり後の心配をするな、とおっしゃっているのです。
今頂いている物だけで出ていく。
会堂を増築しました時に素晴らしいステンドグラスを設置しました。
山本香織さんの作品ですが、ご覧になって分かるように
イエス様の山上の説教「空の鳥を見なさい」
「野の花がどのように育つか、よくわきまえなさい」
その所をモチーフにして制作していただきました。
イエス様は「空の鳥を見なさい」
「野の花がどのように育つか、よくわきまえなさい」
とイエス様がおっしゃった言葉は、
“即座の行動を要求する”そういう単語が使われています。
イエス様は多くの群衆を前に、
「あなたたち、今度畑仕事をしている時にでも
空の鳥を良く見て御覧なさい。
家に帰ったら野のゆりのことをよく考えて御覧なさい」
そうおっしゃったのではなくて、即座の行動を求められた。
つまりガリラヤ湖を見下ろす小高い丘でイエス様が
説教をしておられる時に、空を見上げると鳥たちが飛んでいた。
周りをみると野のゆりが辺り一面に咲いていたのです。
イエス様は“今、この時”に注目された。
「今空を見てごらん、鳥たちが元気に飛び回っているよ、
今野の花を見てごらん、美しく咲き誇っているよ」
そうおっしゃっている。なぜでしょうか。
山上の説教を聞いていた貧しい群衆たちは、
明日の生活を心配していたのです。
明日食べるものがあるか、明日着るものがあるか。
先行きに対する切実な不安を抱えていた。
そういう貧しい人々に、
「心配する替わりに、今に目を向けてごらん。
今ここに神様が働いているじゃない。
神様の素晴らしい業を今見てごらん」
私達心配だ心配だと思うあまり、先の事にばかりに目が向いてしまって、
結局今神様が与えてくださっている恵が見えなくなってしまう。
今与えられている恵みが見えないから、益々先のことが不安になる。
イエス様は一つで十分、2つはいらない、そうおっしゃった。
2つ目を、明日のことを考えるのではない。
今、神様から与えられているものに目を留めることに集中したら、
今与えられている豊かなものに気が付いたら、
明日も同じように必要を満たしてくださる主がおられることを信じられる。
逆にどうでしょうか。
今の恵みを見逃して明日を心配し明日の準備ができたら、
明後日が心配になる。1週間後、1ヶ月後、
どんなに準備しても今が見えない限り私たちが安心することはありません。

2.不安の虜
創世記で人間の歩みを学ぶとよくわかります。
定住生活の中に現れる人間の不信仰です。
移住生活というのは先の見えない生き方です。
移動した場所で本当に食べ物が得られるか分からない。
行ってみないと分からない。何の保証も無い。だから祈るのです。
だから神様に頼るのです。
けれども、人が定住生活をするようになり、
先が見通せる生活ができるようになった時に、
神様に頼ることを忘れるのです。
神様に頼るのではなく、自分たちで蓄えるようになる、
先々の不安に備えることができるようになる。
そのようにして祈らなくても生きられるようになって、
神様に頼らなくても生活ができるようになって、
そのことによってドンドン人は不安の虜になっていったのです。
そういう古代の人々の生活に比べたら
現代人の生活は驚くほどに安定している。
けれども、現代は不安の時代といわれる。
現代人は不安で一杯です。先行きの不安。
今はイイけれど、来年急に会社が潰れたらどうしよう。
人間関係の不安、いつかあの人に嫌われるのではないか。
子育ての不安、子どもが何歳になった時に
こういう問題が起こるかもしれない。
そうやって、先に起こるかもしれない事柄を考えて悩んでしまう。
結局、自分たちの力で不安を打ち消そうとしてもがけばもがくほど、
人間はドンドン不安に弱くなっていく。
不安に押しつぶされるようになっていく。
なぜでしょうか。神様から離れてしまうからです。
現在の切迫した世界情勢も、その根底にあるのは不安です。
不安だから怖いから自分を強くする。
そうやって安心を得るために自分を強くする。
そうやって強くなった相手を見て、
周りが不安を感じ自分たちを強くしようとする。
不安を和らげようとする。
そうやって強くなっていく周りに不安を覚え
もっと自分を強くしなければ、と。神などいない。
私たちは自分自身の手で生きていくと、
自らを絶対化して歴史を築いてきた人間が
行きついたのが不安の時代だったという皮肉。
そういう不安から解放されていくための道は、
私たちが神様に寄り頼み、神様から平安を頂いていく生き方を回復するしかない。
ではどうやって、私たちは神様への信頼を回復できるのでしょうか。
それは、正にこの弟子たちのように自分には
どうしようもできない課題に向き合うこと。
神様からの賜物一つを頼りに出ていくしかない、
そういうチャレンジに身を置くこと。
そう言う中で、一方的に今を支えてくださる神様を体験する時に、
私たちは自分を根拠に安心を得ようとして益々不安に陥っていく生き方から、
神様に信頼する平安。理屈抜きに安心できる人生へと変えられていく。
そのためにイエス様は弟子たちを宣教の働きに遣わされ、
そして「旅には何も持って行かないようにしなさい。
杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。」
と教えてくださったのです。
考えれば考える程、益々不安になることがある。
備えれば備える程、益々欠けが多くなることがある。
安心を追い求めて益々不安定に向かって行く
人生を生きてはいないでしょうか。
突然宣教活動に遣わされていった弟子たちは大いに戸惑いました。
自信を持って出ていけるような物を何一つ持ち合わせてはいなかった。
ただ、自分たちを遣わしてくださるイエス様に信頼して出ていくしかない。
神様から頂いた賜物を信じて出ていくしかない。
そのことが功を奏した。その信仰が思いがけない実りを与えた。
頼るものが無いことこそが、何の保証も無い時こそが、
神様の与えてくださる大勝利の兆しである。
ですから不安を覚えている方こそが、大きな実りを頂く方である。
望みを天に抱き、私たちも出かけてまいりましょう。
大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。
Peace, Love and Understanding
今、ここにある幸いに感謝しよう。