「許されない罪はない」 ヘブル10:26-39 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

この火曜礼拝ブログは

川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「許されない罪はない」ヘブル10:26-39

1
.真理を知ってなお、故意に罪を犯すならば



 今晩の個所を見ますと、32節を分かれ目として

 二つに整理することができます。

 前半の段落は一読して分かるように厳しい警告の言葉です。

 27節には

「ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、

恐れながら待つしかありません。」


と非常に厳しい裁きの言葉。望みを持つことが許されない、

ただ黙って裁きを待つ他無いそのような言葉が記されています。

一方32節以降を見ていきますと、今度は一転して励ましの言葉、

希望の言葉が続いていく。

例えば
35節
「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。

その確信には大きな報いがあります。」

私たちが聴きたい言葉は望みの言葉です。

もう少し学んでいくとヘブル書の記者は

アブラハムの信仰を評して

「彼は望みえない時に、望みを抱いて信じた」

だから優れていると語るのです。 

私たちは聖書の言葉を通して

「でも大丈夫。でも望みがある」

その言葉を今晩も頂きたいと願っている。

しかしながら、今晩の前半の御言葉においては

「許されない罪」と言われるものがあることを記しているのです。

26節
「もし私たちが、真理の知識を受けた後、

進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためには

いけにえは残されておらず、

10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす

激しい火を、恐れながら待つしかありません。」

聖書が罪を指摘する。けれどもそれは、

私たちをそうやって裁き苦しめるためではない。

私たちが自らの罪を自覚することの中で、私には救いが必要だ。

救い主キリストが必要だ、そのことを受け入れる。

救いに導くためにこそ、聖書は罪を語っている。

そのように信じている訳ですが、ここでは違う。

「罪のためのいけにえが残っていない」

つまりもう消しようが無い、救われようが無い罪がある。

そんなことは聞きたくない。

そんな絶望のメッセージは誰も聴きたくないのです。

それでも、聖書がこのように語る以上

私たちは耳を傾けていかなければいけない。

そこになお福音を聴きとっていくことができると

信じて、耳を傾けていく必要があるのです。

26節を見ますと

「もし私たちが、真理の知識を受けた後」と記されています。

真理の知識とは何を指しているのでしょうか。

ヘブル書においてここまで大祭司キリストについて

ずっと記されていました。

特に九章・十章では、ご自身の十字架による贖いによって

私達人間と神様との関係に新たな道が与えられた事が

強調されていました。一箇所見てみましょう。

10:19~
「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって

大胆に聖所に入ることができます。

10:20
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、

私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

10:21
また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、」

 このように見ていくと26節にある“真理の知識”とは、

イエス様の十字架による完全な罪の贖いを表している事が分かります。 

イエス様が私達の罪の為に十字架で死んで下さった事により、

神様との関係をもう一度持つ事ができるという事です。

そのような真理を知ってなお「ことさらに罪を犯し続けるならば」、

「この真理」すなわち十字架の福音を知った後も、

ことさらに罪を犯し続ける。

“ことさら”というのは “わざと”という意味です。

ギリシャ語でもここは 「自発的に」「故意に」

という意味の言葉が使われています。

キリストの十字架の贖いという真理を知ってなお、

自発的に、故意に罪を犯すなら、

もうその罪の為のいけにえは残されていない。

イエス様がご自身を十字架上にささげられた

いけにえは完全ないけにえだった。

しかしこの完全ないけにえは、一度真理を知った者・罪の許しを

体験した者が、故意に犯す罪の為にはささげられていないという事です。 

そのような者は、27節にありますように、

さばきと焼き尽くす炎を待つしかない、そう断言されているのです。

 厳しい御言葉であることがお分かりいただけるのではないでしょうか?

 十字架を知ってなおわざと、故意に犯す罪。

こういう弱さが確かに私たち人間にはあります。 

イエス様が過去・現在・未来の全ての罪を許して下さったという。

そこで許された感謝を持って神様に応答していくのではない。

許されたのだから何をしても良いではないか。

そうやって、許されたことを良いことに、

いよいよ罪を犯すようになっていく生き方。 

子どもたちがやるでしょう。

あの先生は優しいから、怒らないから何をしても大丈夫だ。

どうせ許してくれる、見逃してくれることを良いことに、益々悪さをする。 

しかしイエス様は、そういうのはダメだとおっしゃる。 

イエス様がそうおっしゃる理屈は良く分かる。

けれどもどうでしょうか。

やっぱり私たちはそういう愚かな、薄情なことをする

人間なのではないでしょうか。

救われてなお、いや救われたからこそ良い気になって、

安心して罪を犯してしまう。そこまで性根の腐った罪びとである。 

そういう人間はダメだ、そういう罪を犯すならもう

あなたへのいけにえなど残っていない、

そういう罪は許されないと言われてしまったら

どうしようもなくなってしまう。 

そういう私たちをイエス様はもう許さないと

おっしゃっているのでしょうか?そうではないと思う。

そういう私たちを救う道を備えた、

とイエス様はずっとおっしゃってきたのです。 

ではなぜこのような厳しい言葉が記されているのでしょうか。

2
.許されない罪はない


「罪」とは何か、説教で時々解説をすることですが、

人間の中にある罪の性質の根本というのは、

神様と人間の関係性の棄損であると聖書は教えています。

私たちは罪と言いますとお巡りさんに捕まる罪、

または文化習慣の中でのモラルに反する罪、そういうことを連想します。

けれども聖書の教えている罪というのは、

神様との誤った関係性を指しています。 

そのような神様との関係性のゆがみというのは、

木に例えるならば根っこの部分の問題。

根っこに問題が起こり、その問題が幹や葉っぱなど、

目に見える問題・過ちに繋がってくるというのです。

現実的な様々な問題というのは、根っこにトラブルが

起こっていることを知らせる警告ランプのようなものである。 

最初の人アダムとエバが神様が「食べてはいけない」

と言われた木の実を食べたのです。

なぜ食べたか?

蛇にそそのかされたのです。

「あの木の実を食べたらあなたは神のようになれる。

神はそれが嫌だから、食べてはいけない。そんなことを言っているんだよ」、

その蛇の言葉を信じたのです。

それはつまり、神の言葉を疑った。

信じなかったということです。

この瞬間に、人間は神様との正しい関係性を失った。

神に創られた人間が、創り主なるお方に従うことを止め、

神に逆らうことを選んだ。

ここに、神様に対する人間の正しい関係性が棄損された、

罪の始まりがあるのです。

そしてそのようにして罪が始まった時に、

人間はただちに神の顔を避けて木の間に身を隠したと書いてある。

いちじくの葉っぱで体を覆ったと書いてある。

どうしても神様の前に正しく立てないのです。罪があるから。 

神様はそのような人間の罪を悲しまれました。

ご自身の前に正しく立てなくなってしまった人間を悲しまれる神様。

けれども神様が悲しいだけではありません。

私たち人間はよりそうなのです。

神様との関係を修復できなくなってしまった。

創造主なるお方の前に正しく立てなくなってしまった。

帰る場所を失った罪の結果は、悲しみ以外の何物でもない。 

そのような人間の痛み・悲しみを見て、大祭司なるキリストが

自分自身をいけにえとして捧げ、私たちがもう一度神様との

正しい関係に帰れるように罪を洗い聖めてくださった。

そういう恵みを頂きながら、なお故意に罪を犯すとは

どういうことでしょうか?

罪許され、アダムとエバがエデンの園で最初に頂いていたように、

神様との交わりを許されながら、なお木の陰に身をひそめることです。

神様との親しい交わりに招かれ、その道が開かれながら、

あえてその道を通ることをせず神様との交わりから遠ざかる、

そういうあり方がここで言われている

「真理の知識を受けてなお、殊更に罪を犯す生き方」です。

実はイエス様も今日ヘブル書が語っている

許されない罪ということについて言及されています。

マルコ福音書3:28
「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯す

どんな罪も赦していただけます。

また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。

しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、

とこしえの罪に定められます。」


どんな罪も許される。神を汚すことを言ってもそれでも許される。

ただ、聖霊を汚す者は許されない。

ここでイエス様がおっしゃっていることも、

ヘブル書が今晩語ることと全く同じです。

聖霊なる神様は、イエス様が与えて下さった十字架の福音を

信じることができるように私たちを導いてくださるお方である。

その聖霊の促しを拒否するならば、その罪は許されない。

許されないというのは神が許さないということ以上に、

私たち自身が神の許しを捨ててしまう。

救いの道を私たち自身が閉ざしてしまう、そういうことなのです。

ご聖霊の働きというのは工事現場で代わりに

頭を下げてくれる看板のようでああります。

「工事中です。ご迷惑おかけします」と、

工事をしている人たちに変わって頭を下げてくれる工事現場の看板。 

聖霊なる神様は、私たちの未熟を神に対して、

また人に対して取り成していて下さる。

「この人は未熟です。愛の足りない者です。失敗の多い者です。

ご迷惑おかけします。けれどもこの人の為に

イエス・キリストは十字架に掛かり、この人の罪を、

弱さを、全部償って下さいました。この人はこれから成長していく。

変えられていく。それゆえ許してあげてください」

そうやって神に対し、人に対し弁護して下さるのです。 

このような聖霊の働きを私たちが拒絶してしまったらどうでしょうか。

余計なことをするな、と排除してしまうことはどうか。

ある人がこのように言いました。

「人生とは、私たちの価値を決めるポイント(点数)を

誰かが書き込んでいる大きなスコアボード(点数表)である。

そして誰かが自分のスコアボードに書き込んでくれる

点数に一喜一憂しながら生きる。 

しかしそのことに気付いた時にはもう、私たちは採点する

多くの人々に自分の魂を売り渡してしまっているのである」 



私たちの周りには沢山、私たちのスコアボードに

点数を書き込もうとする人がいるのです。

それは意地悪な人ばかりでは無い。

赤点を出す厳しい人ばかりではない。

むしろ「あなたは素晴らしい人だから良い点数を上げよう。

スコアボードを出してご覧」、そのような甘いささやき。

そうして良い点数をもらって私たちは大喜びするでしょう。

すると次に考えることは、今度は何点をもらえるだろうか。

また別の人は何点を取ったのだろうか。

そうやっていつの間にか、自分のスコアボードに

人々が書き込んでくれる点数に心を囚われてしまう。

私たちの心は人の評価によって支配されてしまうのです。

けれども、イエス様の福音に捉えられた人は、

もう自分のスコアボードを人の手に預けることをしません。

どんなに良い点数を書き込んでくれるとささやく人が居ても、

もうその人に書き込むことを許さない。

ただイエス様の十字架によって刻み込まれた福音の言葉があって、

聖霊なる神様がそのスコアボードを掲げてくださっている。

「この人はイエス・キリストに愛され、贖われた者です」、

もう私たちの手の内にスコアボードは残っていないのです。

それは聖霊なるお方の手に握られ、

神様ご自身によって書き込まれた

私たちへの勿体ない程の特別な評価がある。 

それなのに、別途私たちが自分でスコアボードを用意して、

この世に頼んでそこに自分の価値を書き込んでもらい

神様の所にそのスコアボードを持っていくでしょうか。 

聖霊を軽んじる罪とは、つまり十字架によって救われ、

聖霊によってその救いに生かされる道を用意して

頂いたにも関わらず、神の御前に自前のスコアボードを持っていくことです。

神様が「私が持っている。このスコアボードに、

命の書にあなたの名前がちゃんと書いてある」そう言って下さるのに、

「いえ神様、それではありません。私のスコアボードを見て頂きたいのです。

これで私を評価して欲しいのです。

こんなことをしました。あんなことをしました」

そのように言い張るならば、もはや救いの道を

自分自身で断ち切ることになってしまう。

許しを自分自身で捨て去ることになってしまう。

そのようではなく

39節
「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、

信じていのちを保つ者です。」


どちらを選ぶでしょうか?

神様が持っていてくださるスコアボードと、

私たち自身がこの世で大切にしてきたスコアボード。

神様の身許にある命の書と、私たちが持っているボロボロのノートと。

それは私たち自身が選ぶことです。

神様はこれで生きよ。これで命を保てと示して下さっている。

けれども選ぶのは私たち自身です。 

36節にはこのように書いてある。

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に

入れるために必要なのは、忍耐です。」


誰が何を忍耐するのか?

再び来たりたもう主イエスを待ち望んで忍耐する、

そういう意味もありますがそれだけでは無い。

私たちが自分自身に忍耐すること。

自分でも見切りをつけたくなるような愚かな自分自身を見捨てないこと。

こんな自分はダメだと思って、スコアボードを手に

この世に飛び出していかないこと。

私たちの横で

「ご迷惑をおかけします。けれどもこの人はイエスに愛された者です。

この人は永遠の命を与えられた者です」

そうやって頭を下げ続け忍耐してくださっている

聖霊の業に信頼して、自分自身に忍耐する。

そこに約束のものが必ず与えられる。

私たちは神様に招かれている。

でもどんなに招かれても、あなたの罪はもう聖められた

と言われても、それでもうつむいてしまう、

愛されていながら信じられない。

けれども神様は、私たちが思うよりも

遥かに大きな愛で私たちを招いてくださっている。

「信じて命を得よ」と招いて下さるイエス様。

許されない罪はありません。

全ての罪をイエス様は許してくださった。

私たちの愚かさに勝るイエス様のご愛に飛び込んでいきたい。



大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。