「しもべにまさる主人がいる」ヨハネ15章18節~27 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

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ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

おはようございます。伊東市・中小企業元気アドバイザー、

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です

■「しもべにまさる主人がいる」ヨハネ15章18節~27節

川奈聖書教会の火曜礼拝ではヨハネ福音書を学んでいます。

18節
もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりも

わたしを先に憎んだことを知っておきなさい。


ここでは、キリスト者の運命が語られています。

キリスト者は同胞のユダヤ人から迫害を受け

ローマ帝国からも迫害を受け

300年間、世の憎しみの対象として生きることを

余儀なくされてきました。

ペテロの手紙第一4章12節

愛する者たち、あなたがたを試みるために

あなたがたの間に燃えさかる火の試練を何か思いがけない

ことが起こったかのように驚き怪しむのではなく、

むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから

喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れる

ときにも、喜びおどる者となるためです。


これはペテロが迫害を受けているキリスト者へ宛てた

メッセージです。

「迫害を思いがけないことではなく

当然のことと受け止めよ」


9節

もしあなたがたがこの世のものであったなら、

世は自分のものを愛したでしょう。



ここの部分は他の訳によると

「もしあなたがたがこの世に属していたなら

あなたがたを身内として愛したはずです。」


身内であることの特別性

地方において、身内ということの特別な意味を

実感します。

身内であるがゆえ、特別な待遇を受ける。

身内かよそ者で相当大きな違いあります。


川奈聖書教会も、この伊東の地で

「身内」として受け入れられることを

目指しているそうです。

教会にとって、地域と繋がりを持つことは大切なことで

あるからです。

「神に属する」ことはキリスト者だけと付き合い

「この世の属する」ことが一般のひとたちと関わこと

ではありません。


神に属し、信仰を保つことによって

この世との対立関係を築いてしまうことは大きな誤りです。


教会の最初の300年は壮絶な迫害の歴史でした。

飢饉、災害、疫病・・・

何か悪い事が起こるとキリスト者のせいにされた。


あらゆるときにキリスト者は迫害の対象とされた。

やり場のない怒りや不満のはけ口がキリスト者に当てられた。


初代教会が歩んだ苦難はイエス様が歩んだ苦難とつながっています。


イエス様は正に人間の不満や罪のはけ口とされ

十字架にかけられました。

来るべきメシアを700年も前にイザヤ書で預言しています。


イザヤ書53章7節

「彼は痛めつけられた。

 彼は苦しんだが、口を開かない。

ほふり場にひかれて行く羊のように

毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように

かれは口を開かない。


来るべきメシアは「スケープゴート」(身代わり、生贄)

にされることを預言しています。


人間であるがゆえにどうしようもない問題や痛みを

どんな時代、どんなコミュティーにおいても

抱えています。


世の中を治める為政者がすることは

行き場のない人々の不満ををいかに誤魔化し

その不満のはけ口たる標的を見つけることです。


問題を追究して、二度と起きないように社会全体で、反省する

教訓にすべきなのに、犯人捜しにやっきになる風潮があります。


これは社会が「やり場のない痛みや不満」を抱えきれなくなっている

未成熟性が増しているためではないかと思います。


イエス様は宗教指導者たちに殺されました。

ローマ帝国にイスラエルが支配され

先の見えない不満が鬱積する、はけ口のようにされても

なお、イエス様は自分の正しさや社会の不当性を

主張するのではなく

そういう人々の不満や怒りを一身に背負い

ほふり場にひかれて行く羊のように

十字架に向かわれて行った。


イエス様が身を持って教えて下さったその歩みから

私たちは何を学ぶのでしょうか?


私たちは、自分を放っておいたら自分にとって大切なもの

必要な存在、何の罪のない存在を犠牲にしてしまう

凶暴性を秘めています。


イエス様に学ぶのでなければ

私たちは知らず知らずのうちにスケープゴートを

作り出してしまします。




10人のチームで何かプロジェクトをするとき

集団の中に一人足を引っ張る人というのが

どうしても存在します。

では、この一人を排除して残った優秀な9人で

チームを編成してみると

今度は9人の中に一人足を引っ張る人が

出てきます。

その足を引っ張る人を排除して8人にしても結果は同じ

その8人の中から、やはり足を引っ張る人が

出てきてしまいます。

足を引っ張る人を排除し続けると

最後には一人だけが残る結果になってしまう。


邪魔と思える一人が実は重要な役割を担っている。

その邪魔と思える存在をいかに留めておくか?

それが一番、チームにとって能率があがることなんです。


社会が混迷する中においては

弱者を切り捨てることは結局は

自分自身の首を絞めることになることを

知らなくてはいけません。


私たちがすべきことは

誰かを犠牲にして生き延びることではなく

誰かに怒りをぶつけて守ろうとするのではなく

むしろ、自分自身がそのようなものを引き受け

自分自身を差し出しても、

弱って落ちて行く一人を支えることです。

そのことで実は自分自身が救われることとなるのです。


20節

しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに

言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したら

あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったら

あなたがたのことばも守ります。



「主人」はイエス様、「しもべ」は私たちです。


この当たり前のことを当たり前として

覚えておくことができるのが信仰生活のカギです。


「しもべである私たちの愚かさを伝えていくこと」


「主がいつもついて下さるという希望のことばがあるということ」


私たちが家庭、学校、職場、コミュティー・・・において

悩み、苦しみ、困難に陥ったとき

そこで望みを見いだせないから

誰かのせいにして、スケープゴートを必要とする。

誰かを犠牲にして自分を守ろうとする、支えようとする。

でも、その犠牲にしようとする人が実は

私たちにとって一番大切な存在であることが

見えなくなってしまう。


その最たる場所がイエス様の十字架なんです。

望みを見いだせずに、イエス様を傷つけ

十字架に掛けてしまった。


私たちは耐えられない痛みを経験するときに

誰かを恨み、誰かを妬み

最後には神を憎むようになうのではないでしょうか?

「神がいるのなら何でこんなことが起きるんだ!」

そこでもう私たちは「世の身内」になってしまう。

そういう私たちの心を見つめるとき

私たちの罪はどこにあるのか?

その場所が見えてくるのではないでしょうか?


そうやってその場所が見えたことよって

そこから解き放たれることがどのようなことであるか

私たちは

「しもべは主人にまさらず」

そうおっしゃったイエス様のことばの意味が

そこで身にしみてわかる。


私たちは自分自身の罪と戦わなくてはいけない。

神様に選ばれ出されたものとして

この世に引っ張られそうな自分自身の弱さ罪と

相対する必要がある。

そのときに

私たちは一人じゃない

いつもイエス様がいて下さる。

「しもべは主人にまさらず」

そうおっしゃるイエス様のことばに聞けばいい。


自分がスケープゴートにされそうなとき

また誰かを犯人して罵っているとき

こんな辛いんだからやむを得ない・・・

でもそうではありません。


「しもべは主人にまさらず」とおっしゃる

イエス様の声があるんだと

自分の至らなさを認める必要がある。

そうしないと「私たちは世の虜」になってしまう。


ひとり子をお与えになるほど世を愛された神様がおられる。

私たちの愛は主人である神様に遠く及ばないものと

自分を卑下するではなく

私たちに遠く及ばない愛を示し下さっている

主がいらっしゃる。

そのことに希望を見出していく必要がある。


私たちの小さな愛など簡単に折れてしまうことが

たくさんある。

でも、そこでいつも私たちには及びもつかない

完全なる愛を持った主がおられる。

そこに私たちの揺るぎない希望がある。

その希望の中で私たちは安心して

イエス様についていくことができる。

イエス様が歩んだ十字架の道を

私たちも歩んでいくことができる。

その先に主が生みだして下さる真の望みがある。

出会いがある。平和があります。


大事なことは、いつも聖書とロックが教えてくれた。

ラヴ&ピースKeep on Rock’n

今日も楽しく、誇りをもって行こう!