コース学習者が、


病気になるとかなり混乱したり


自分責めに入るのでは、


無いのかなと私は思う。


勿論、私もそうでした。



「奇跡のコース的には、


どう考えたら良いのだろう?


私が、この病気をつくったの?


どんな信念が?」って、


沼にハマってしまう。


でも

奇跡のコースの中の

私がこの世界をつくりましたの



「私」を個人の私と

捉えてしまう事は、

違うなと思う。


病気の後の目覚めの体験で、

私の認識は、

スッカリ変わってしまった。


あらゆる事象は、

全体性で起きているのだ。


身体の中にこころは、無いと

奇跡のコースでは、

ハッキリ書いてある。


私達のこころはひとつなのだから

本当にこの宇宙は、

ひとつのこころの投影なのだ。


個人的に誰かが病気を

つくっているのでは無い。


分離を見ているひとつのこころが、

生と死、健康と病、

早死に、長生き、平和と戦い、

その他諸々の違いのある世界を

夢見ている訳だから。


何処かに病は、立ち現れるのだ。

それは、勿論

身体の事だけでは無い。

お金の病、仕事の病もそうだろう。



誰にも何も罪は無いんだよ。

あらゆる事は全体性での

起こり。

個の私がいると言うのは、

マインドの錯覚なんだよ。


奇跡のコースが、

私を運んでくれたのは、

そこだった。


ラメッシバルセガールの

弟子でもある

アドヴァイタの教師

ウェイン・リカーマンは、

この事を作者錯覚と言う言葉で

表現している。


この事をこころが受け入れると

とても楽になる。

赦しもその土台があってこそ、

罪悪感無く出来るのだ。




さて、肉体に症状がある時、


痛みがある時、


ただでさえ、正気を失っている私達は、


完全に肉体と同一化してしまう。


病気を無くすお祈りを


教えてくださいと言われる事があるが、


私は、先ずは病院に行くのをオススメ


している。




奇跡のコースが言っているのは、


今、何が役に立つのか

って事だと思う。


こう言う不安な時は、

エゴか聖霊か?とか

信念を見詰めるとかよりも先ずは、


分離(エゴ)を

選ぶのか?

ワンネス(繋がり)を

選ぶか?と、考えた方が

役に立つと思う。


誰もが神の子なのだから

ひとりで抱えず、

神の子を信頼して

飛び込んでみよう!を

選択する。


繋がって助けてもらおう。

誰か助けてくれる人に

飛び込ませてくださいと聖霊に

お願いして、

愛を受け取る為に

病院や専門家に

飛び込む。


聖霊を選ぶとは、

孤独、分離を選ばず、

ワンネスを選ぶ事だと思うから。


病院に行こうとすると、

過去に病院であった諸々の

許せない、

許していなかった攻撃心が、

浮上してくる人も多い。


医療に対する意味づけや判断、

攻撃心、

そう言ったものは、

ひかりに還る為に浮上して来ただけと

捉えて聖霊に

手渡す。


さて、前回の続きなんだけど、


以前私が長期入院した時、


自己憐憫、怖れにつかまってしまって、


出れなくなった。


この時、聖霊に助けを求めた後に


初めて、私は、


ビジョンを見る事になる。


鬱々とした気持ちが


耐え難く、散々聖霊に


罵詈雑言、不平不満をぶつけた後に


「神様、どうか、助けてください。


何処ででもヒカリを


見る事が出来るのなら


此処ででも見れますよね?


私は、入院中の病院の中でも


ヒカリを見る事を意思します。」


そんなふうに祈っていた。


続く。


4月スタートクラスです。