昨日書こうと思ったことは
まだ戻って来ず・・(笑)
今日は昨日のミサの帰りに話題に上った
「赦し」
について。
キリスト教では大きな意味を持つものです。
英語では forgive
イタリア語では perdonare
これらの単語は
for・give
per・donare
forはイタリア語でper
giveはイタリア語でdonare
と、どちらも日本語に訳すと
「与える、渡す」
という言葉が入っていることが
気になっていました。
なので調べてみると
語源はラテン語でイタリア語と同じ
perdonare
その意味は
「無条件に完全に与える、渡す」
per:完全に、無条件に
donare:与える、渡す
とありました。
今は前置詞として使われるfor/perも
ちゃんとした意味があったんですね。
「赦す」という意味の
英語もイタリア語も元々は
「無条件に完全に与える、渡す」
という意味だったのが
長い年月を経て
日本語でいうところの
「赦す」
の意味を持つようになった・・
その経緯までは調べていませんが
「無条件に完全に与える、渡す」
という視点から
「赦す」ということを
わたしなりに考えてみました。
もしもご興味があったら
皆さんも自分なりに考えてみたら
いかがでしょうか。
わたしの考えをシェアする前に
まず前提としてわたしは神様を信じています。
洗礼は受けていませんが
ジーザスを信じ、聖書が愛読書です。
ということで
そちらの方向での解釈です。
「赦す」=「無条件に完全に与える、渡す」
これをわたしというシステムの中に入れて
プロセスされて出てくるものを
静かに待ってみました。
出てきたものは
赦しとは
全てを無条件に完全に神様に渡すこと
というものでした。
ここで言う「全て」とは
赦す相手に対して抱いている
- 感情
- 恨みつらみ
- 批判的思考
- 攻撃的思考
- 被害者意識
- 裁き
- 期待
- 仕返し欲
など
相手との関係の中で発生した
- 出来事
- 言葉
- 傷
など
そして
相手
これらを相手に向けるのではなく
神様に無条件で完全に渡すことが
「赦し」なのではないかと。
と、ここまで書いたところで
夕飯の支度をする時間になったので
明日また続きを書きます!
(続きはこちら↓↓
赦し(forgive, perdonare)について(2))
最後までお読みいただき
ありがとうございます。
愛と感謝と共に
心の平穏をお祈りしています。
かおり@いのちの幸せ