いつもと同じような朝、いつもと同じように、何事もなく過ぎてゆくはずの1日なのに、

悲鳴のように鳴り響く防災の日のサイレン。

なぜか、その日のサイレンは腹が立つほど、うるさく鳴り響いていました。

電話が鳴ったので受話器を取った時、聞きなれた声が、

『mahalo君、tomが死んじゃった。』tomの奥さんでした。

朝、日の出とともに旅立ちました。

tomと仲良くなったのは、中学3年の時、修学旅行のバスの席がボクが前でtomが後ろの席。
気が会いすぐに仲良くなりました。
tomは頭が良く運動も得意で何をやらせても器用にこなしました。

しかし、背が低く足が短いのがコンプレックスだったみたい。

バイクのレースにでたり、サーフィンを始めたのも一緒でした。

ボクは劣等性で担任の先生に『キミはtom君にいい影響を与えないからあまり彼に近づかないように!』

と言われ、その事を話した時、tomが『関係ないね』って言ってくれた事、忘れない。

いつもみんなを笑わせてくれた。ある大企業のハウスメーカーに入社したのに
1年たって『オレ、ロンドンへ行く』って会社を辞めロンドンへ行っちゃうし、

今思うと人よりも早く人生を走り過ぎたようです。

ボク達の結婚式の司会をしてくれたのもtomでした。

自分でかってに書いたボクの親への手紙を呼んで泣いたため、周りから
『司会者頑張れ!』のコール!!忘れない。

tomが結婚したのはボクと同じ年の秋でした。

その後、娘が産まれ、いいお父さんをしていました。

11年前の年が明けたその時tomが『オレ、今年いっぱいもたんかもしれん』

驚きました。言葉が出てきませんでした。

その時、tomとボク、それにTともう一人いたと思うんですが、わからない。

今でも一人いたことは間違いないと思うんですがわからないんです。

5月、tomの奥さんからの電話で告知を受けたことを聞きました。

『落ち込んでいるから来てあげて』ボクは体がふるえて怖かった。

友達のTとKに連絡をして一緒に病院へ行ってもらいたいと頼んだが
二人とも『どんな顔してあえばいいか分からないから行きたくない』と断られました。

ボク一人で病院へ行き、病室のドアを開けると、ポッンとtomがイスに座っていました。

『肺がんの末期だと。5年生存率が0,8%だと』返す言葉が・・・。

抗がん剤治療は体を弱らせ気力さへ奪っていきます。

しかしtomは奥さん、娘のために生きる事をあきらめませんでした。

一時退院で実家へ帰ってきた時、ボクとTとkで会いに行ったのが最後で、

その翌日、体調がすぐれず病院へ戻り、面会できなくなりました。

tomの奥さんから電話をもらってから3日間、断片的にしか記憶がなく、思い出すのが、

通夜の晩、酔っ払ったTがロビーでズボンを脱いで寝ていたこと。

kは『tom君、串カツが好きだったで買いに行く!』って言ったまま車で走って行ったこと。

tomのお父ちゃん、お母ちゃん、兄ちゃんに、
『tomの友達の事はmahaloがよく知っているからまとめてくれ』と頼まれ

泣いて悲しむ暇が無く過ぎて行った時間。

tomの奥さんの泣き声!tomの娘が歌う声。

ガーンと重い扉の閉じる音。

気がつくと一人車で自宅へ。

久しぶりに娘と会いホッとしたこと。

次の日、ボクは病院へ行き、産後の奥さんにtomが死んだことを告げたこと。

忘れない。

あれから11年、今では悲しかった事より楽しかった事を思い出します。



tomへ

また誕生日が近づいたら家族で会いに行がくよ。

お前のお父ちゃん、お母ちゃん、兄ちゃんにお前の恥ずかしかった話をしに行くよ。

お前の奥さん、子どもの事も聞きたいしな。

お前は喋れないから黙って聞いてろ。

オレは相変わらず元気にやっているよ。

新しい仲間も増えた!

もう悲しい話は無しな!

これで最後だ!

これからは楽しかったことを思い出しながら生きていくよ。



追伸 

湿っぽい話で申し訳ありませんでした。

ボク自身けじめをつけるためにもどうしても書きたかった事なんです。

最後までこの話を読んでくれたことを感謝します。

次回からいつもの中年ヨレヨレサーファー治療師mahaloに戻ります。

どうか、これからもよろしくお願いします。