昨日書いたこの記事。


 

 

 

 

 

10月28日のノートブックセミナーのときに

 

上の記事に書いたようなことを感じていた。

 

 

 

 

 

 

ノートブックセミナーの約1週間前に

 

大好きだったおじちゃん(叔父さん)が突然亡くなってとても悲しかったのだけど

 

そのときの経験からも、

 

死は怖いものでも悲しいものでもない。

 

ますます自分の中でその確信が強くなった。

 

死が寂しいのは「もう2度と会えなくなるから」ではなかった♡

 

 

 

 

 

 

死というのはその「存在」が消えてしまうことではなく

 

肉体という「限定性」がなくなること。

 

そして、「限定生」がなくなるということは、

 

肉体という制限なく「全て」からその人の存在を感じられること。

 

 

 

 

 

 

おじちゃんの死を通じて

 

心の底からそんな風に感じました。

 

 

 

 

 

 

だけど、その翌週。

 

大切な仲間であるじゅんさんが亡くなったことを知った。

 

じゅんさんへの手紙。

 

 

 

 

 

 

そこから、正直良く分からなくなった。

 

これまで自分が感じてきた感覚に、一気に自信が持てなくなった。

 

なぜなら、あまりにも寂しくて悲しかったから。

 

 

 

 

 

 

おじちゃんは、両親やおじいちゃんおばあちゃんと同じで

 

「いつかはお別れしないといけない」

 

そんな事実を小さな頃から知っていて

 

どこかで覚悟みたいなものを感じていたような気がした。

 

 

 

 

 

 

だけど、じゅんさんとは

 

まだまだずーーーーーっと一緒に過ごせると当たり前に思っていた。

 

また一緒にParisにも行ける。

 

たくさん語り合うことができる。

 

色々な経験を共有できる。

 

これからもずっと一緒に生きて、より良い人生を求めていけると思っていた。

 

 

 

 

 

 

今考えると「当たり前」のことなんて世界に1つだってないのに

 

なぜかバカみたいに

 

疑うことなくそう信じていたのだった。

 

 

 

 

 

 

それがもう叶わないこと。

 

肉体を持って、一緒に生きることはできないことを知って。

 

本当に悲しくて悲しくて仕方がなくなった。

 

死は怖いものでも悲しいものでもない。

 

ここ数年で確信を深めていった「死」に対する受け取り方も、

 

自分が本当にそう思っているのか分からなくなった。

 

 

 

 

 

 

だって、私の感情はこんなにも悲しい。

 

とても喪失感を感じている。

 

死が本当に悲しいものではないのなら、一体この気持ちはなんだろう?

 

 

 

 

 

 

「もっとこうすれば良かった。」

「なんでああしなかったんだろう。」

 

そんな気持ちで心の中がいっぱいになっていき

 

あんなに感じていた、源の視点から感じる安心感も

 

広がりも、美しさも、

 

忘れてしまったような感じがした。

 

 

 

 

 

 

そんな頃、注文していた絵本が届きました。

 

 

image

 

 

 

 

 

 

10月末に旦那さんが熊本に出張に行っていて

 

熊本の方に連れて行ってもらったという美術館で、絵本をたくさん買って帰ってくれました。

 

 

 

 

 

 

image

 

 

 

 

 

 

その美術館自体が、広大な自然の中にあって

 

絵本の世界そのものという感じで

 

ブルービーと呼ばれる青い蜂の姿を見ることができて・・・

 

と、話を聞いているだけで

 

「行ってみたい!」と感じる場所でした。

 

 

 

 

 

 

上の写真の右下の、可愛いキツネの絵。

 

「どこかで見たことがある気がする・・・」

 

と思っていたら

 

以前にさきこさんがオンラインサロンで紹介されていた絵本。

 

『水平線の向こうから』

 

この絵を書かれた作家さんと同じ方の絵本でした。

 

 

 

 

 

 

旦那さんが熊本で訪れた美術館は、

 

偶然、この絵本の絵を書かれた

 

「葉祥明阿蘇高原絵本美術館」だったんです。

 

(写真を見るだけで、本当ーーに素敵な場所なんです!)

 

 

 

 

 

 

ちょうど、今開催している

 

「3ヶ月間のオンライン継続講座」のグループページの中でも

 

この美術館と絵本の話題になり

 

早速この絵本を注文しました。

 

 

 

 

 

 

絵がとても美しいことと

 

大切な人との別れを感じる空気に

 

ページを開いてすぐに涙が溢れてきた。

 

 

 

 

 

 

その中で、ある一文が目に留まりました。

 

「死んでいくのも同じよ。いなくなるのではなくて、見えなくなるだけなの」

 

 

 

 

 

 

お母さんが8歳の娘に、死を船に例えて説明した場面。

 

船は、だんだん小さくなって水平線の向こうに見えなくなっていく。

だけど、見えなくなっても沈んだ訳じゃない。

 

見えなくなってしまうだけで、いなくなってしまう訳じゃない。

 

 

 

 

 

 

この言葉が私にとって、とても「本当のこと」だという感じがした。

 

そして、それをきっかけにまた少しずつ

 

自分の中にある悲しみと、「死」そのもの。

 

これらを分けて見ることができるようになっていきました。

 

 

 

 

 

 

私がどんなに悲しくて、寂しくても

 

それは「死」そのものを表したものではない。

 

その事実を、見ることができるようになっていった。

 

 

 

 

 

 

そして、そう思ったとき

 

私が大切な人を失ってその悲しみや寂しさに飲み込まれてしまっても。

 

源の視点のことも、魂の存在のことも、何もかも思い出せなくなってしまっても。

 

 

 

 

 

 

私の感じている気持ちとはまったく関係なく

 

いつでも真理は変わらずそこにある。

 

そんな事実に気付いた。

 

そして、それはとても安心できることでした。

 

 

 

 

 

 

もし、肉体の私が悲しみに飲み込まれてしまっても。

 

もし、本当の自分を思い出せなくなってしまっても。

 

見えなくなってしまうだけで、いなくなってしまう訳じゃない。

 

この事実は何も変わらない。

 

 

 

 

 

 

ずっと変わらずその事実はそこにあるのだから

 

時間がかかったとしても

 

今回みたいに一瞬忘れてしまっても

 

また必ず、その真理を必ず思い出すことができる。

 

そんな気がした。

 

 

 

 

 

 

見えなくなってしまうだけで、いなくなってしまう訳じゃない。

見えなくなってしまうだけで、いなくなってしまう訳じゃない。

見えなくなってしまうだけで、いなくなってしまう訳じゃない。

 

何度もこの言葉を想っていたら

 

本当に本当にじゅんさんの存在を近くに感じるようになって

 

不思議なくらい

 

悲しい気持ちも、喪失感も、和らいでいくのを感じました。

 

 

 

 

 

 

「真理」というものが変わらずにそこに在ってくれるのなら

 

時間がかかっても何度でもまた思い出せば良いことが分かった。

 

私、また忘れるかもしれないけど、

 

忘れる度にまた思い出します。