わたしの公文 - ③ | 子育てしながら◆公認会計士試験◆

子育てしながら◆公認会計士試験◆

*・*・*小学生娘の母*公認会計士試験に向け学習中*・*・*

私が公文の勉強を始めたことについて、書いています。

 

ちなみにこの③のブログは、昨日27日(日)に書いています。

 

「今日」とか「今週」とある部分については、適宜、読み替えて想像していただけるとありがたいです。

 

 

 

 

 

今でも、母との会話の中で、受験勉強の話題がちょっとでも出ようものなら、母からバサッとスパッと昔と変わらない斬れ味で否定されます。

 

とりあえず勉強することは否定されないし、試験を受けることも否定されないのですが、短答がダメだったと報告すると、「やっぱりね」とバッサリ嫌な言葉を言われます。

 

 

相変わらず切れ味の鋭い言葉で私を斬ってきますし、このお正月には、私が公文の教室で築いた評価をしれっと自分のもののようにしていて、その時には私もかなり怒りました。

 

それと同時に、今私が試験に向けて勉強をしていることを周囲に隠すような言動もしていたので、「なぜ隠されなければいけないのか」という気持ちがこみ上げて、本当に悔しくなりました。

 

なんだか私が恥ずかしい存在みたいで、みじめじゃない。

 

 

 

カウンセリング

「結局、どうしたいのですか?」

 

この悔しさに自分がつぶされそうになって、心理カウンセリングを受けた時に、臨床心理士の先生に問われた言葉です。

 

その後の別のカウンセリングでも、やはり聞かれました。

 

また別の機会では、こうも問われました。

 

「あなたはお母さんに自分を認めさせたくてこの勉強を続けているんですね」

 

その時には、その言葉にはきっぱりと「違います」と。

 

 

私がこの試験を受ける理由は、以前も書いた、フランチャイズの会計について追求したいから。

 

だから、私の試験の動機に、母が絡むなんて絶対にないと思ってましたし、そんなのは「嫌だ」とすら思っていました。

 

そういう「主観や感情まみれの動機」に、しかも母がからんでくるなんて、すごい嫌な気持ちになります。

 

いつまでも親がどうとかこうとか未練たらしいのは嫌ですし、そういう年齢ではないと思っていました。

 

 

それに、

 

私は、公文の教室を自分で始めて、そこで成果を出して、自分としては正々堂々と親を越えたんです。

 

私の中の親の壁は、とっくに崩落したと思っていました。

 

 

だけど。

 

そう思ってきたけれど、でも私の中の私は、「まだだ」と思っているのだろうか。

 

 

あぁ、きっと「まだ」なんだろう。

 

だって、母の言葉を聞かないと決めても、それでも言われたら、毎度、心が揺さぶられてダメージを受けているから。

 

嫌な言葉が聞こえない距離をとろうとしても、ふいに無作為にぶつけられる言葉には、結局やられてしまう。

 

そして毎度、否定された言葉に噛みついて、母と話が終わった後も、「そんなことない、ちがう、私は私。母の言葉に引っ張られるな」と、ずっとずっと、母の言葉から逃れようとする自分が出てきてしまっているから。

 

私はまだ、母の否定の言葉に虐げられている・・・

 

 

 

だから、自分の心に何度も聞いてみました。

 

「あなたは母に自分を認めさせたくて合格したいと思って勉強をしているの?」と。

 

 

すると何度目かの問いに。

 

「ううん、合格してぎゃふんと言わせるためとは思っていない。

 

母を今さらコテンパンにしてやるんだという気持ちもない。

 

そうではなくて、

 

ただ、ここを乗り越えたら、自分は楽になれるから」

 

という心の声が聞こえてきました。

 

 

その声を聞いて、逆説的に、そうか自分はまだ母の何かを抱えているんだということに確信が持てました。

 

「やっぱり自分はダメなんだ」と自分を否定してしまうし、まだ母は私にとって私を揺さぶってくる人であり、揺れる自分が苦しむこの状況は、昔も今も変わっていないんだ。

 

その現実を、その自分を、やっと受け入れました。

 

すごく女々しいけれど、私はまだ自分の中の「子ども時分のわたし」が、ママの言葉一つでビービー泣くような状態なんだということを認めないと。

 

私はまだ親を克服できていない。

 

 

だけど、もう・・・もう、そこから解放されたい。

 

母が今さら変わると思っていないし、変わってほしいとも思っていないし、変わることに期待はないからこのままでもいい。

 

ただ。

自分が母の言葉に、いちいち揺さぶられる「この自分」からは解放されたいと、そういう気持ちが溢れてきました。

 

そのために、私は「勉強に対する自信」がほしい。

 

すくった掌からこぼれていく自信を、この手に取り戻す。

 

 

 

 

ここ数日

そしてここ数日の私は、この「自信を取り戻す前の大掃除」を経験していました。

 

この大掃除の1週間は、自分にとっては予想外のものでした。

 

 

なぜなら、もう既に10時間勉強と言い始めて、実際にこれだけ勉強できてるのだから、徐々に自信は取り戻していけるんだろうと、自分に期待を持ち始めていました。

 

実際に1月ごろはカウンセリングの問いかけの過程の中にあって、2月になる少し前に、今とは違うのですが「答え」らしきものが出たので、ああこれで心の中が整理され、自分は10時間勉強という気持ちになれたんだと思っていました。

 

だから、この数週間は無我夢中で勉強。

 

 

でもなぜか今週に入って、いきなり。

 

大掃除開始です。

 

いきなり、過去の記憶がドバーッと出てきました。

 

これまで白黒で、さりげなく放っておいた過去の記憶が、もう全くの許可なく、前ぶれもなく、ドバーッと出てきたんです。

 

しかも、白黒ではなく鮮明なカラーで。

 

その時の感情も、その時の場の色も匂いも、細かく見た物も。

 

小さい頃に見た風景も、小学生の頃、中学生の頃、高校生の頃、東京に出てきてからのこと、全部、色を伴って細かい描写で思い出すということが起きました。

 

2時間ほど、夜明け前のうつらうつらとした白昼夢で、時間をかけて本当にこれまでの足跡を一つ一つ丁寧に見ました。

 

正直、びっくりしてしまって。

 

取り止めのない夢を明け方に見ることはありましたが、もうそれとは別次元の、鮮明な記憶の・・・なだれです。

 

 

これは「良い傾向なのか」と思って、そのままいつもの勉強に突っ走ろうとしたのに、そしたら手が止まって体が止まって、頭も勉強に向かおうとしなくて。

 

ひたすら困ってしまい、数日あがいていました。

 

で結局、「ちゃんと向き合って昇華してきちんと整理してしまいなさいということなんだな」と、自分の心に素直になることにしました。

 

 

そういえば、PTSDのカウンセリングをしていた時には、こんなことなかったですし、どちらかというと、人間の心はドラマみたいにいきなり世界観が変わるということはなく、淡々と見えないところで小さく変化していくものだというのが、私の治癒の過程だと思っていました。

 

小さな自分の心の変化を見つけて、「よく頑張った」と認めてあげて、少しずつ自分の在り方を修正して、自分の行きたい方へゆっくりと向きを変えるのが、私の感じ方でした。

 

だからこんな、ちょっと劇的な変化は過去になくてですね。

 

ここ数日、自分の心の状況には半信半疑でいましたし、本音は早く勉強に戻りたいんですが〜と思いつつ、ただただ、この流れに身を任せ、流れながら自分を整えていった1週間でした。

 

 

 

公文を始めました

本来の標題に戻ります。

 

わたしは自分の自信を取り戻す方法を考えました。

 

というか数ヶ月前から、心の奥底ではずっと考えていました。

 

そして真っ先に思ったことが、公文がちゃんとできなかった悔恨をしっかりと晴らすということ。

 

 

公文を始めようと思ったのはもう昨年の11月ごろで、既にここは動き始めていました。

 

ただし、この頃の公文をする目的は今とは全く違うものでした。

 

目的は、「頭の回転を良くする」という単純な発想です。

 

 

正直、今の私のレベルは、その辺の公文をやっている子よりも早く計算が解ける自信はありますが、でも、早慶レベルに行けるピカイチの地頭の子の暗算力はちょっと桁違いに速いので、そこに近いレベルになりたいなという気持ちがありました。

 

あと、間違いを減らしたいという目的。

 

大人になって計算から離れていたので、私の場合は解いている途中に「あれ?」と気づくことなく最後まで解いてしまうことが普通に起きていました。

 

でももし自分に計算の感覚がちゃんとあれば、「変な計算ミス」をしていると、だいたいは「あれ?なんか違和感」となります。

 

そのこの勘を戻したくて、始めました。

 

それで、いちおうお金のかからない方法として、母の生徒にしてもらって、母からプリントを送ってもらい、自分で採点して、自己解決で公文をしようと始めていました。

 

 

でも、「一人で」っていうのが全く習慣につながりません。

 

やっぱり公文は、教室の先生がいないとダメだと。

 

それに母に出しても「採点してもらえないんだろうな」「郵送で送ってまた採点してもらえなかった時の心の痛手は受けたくないな」などのいろんな想いが交差して、遅々として進んではいませんでした。

 

 

やっぱり母が関わっている状態で公文をやっても、結局同じ木阿弥なんだよねと思い直しました。

 

それで、娘の教室の先生に頼んで、生徒にしてもらいました。

 

もちろん正規の大人料金で。

 

 

その娘の教室の先生とお話しした時に、全部、洗いざらい私が子ども時代の時にちゃんと公文ができなかったことを話しました。

 

本当は公文がしたかったことも。

 

そして「昔できなかった自分を取り戻したいんです」って、普通にサラッと言葉になって出てきました。

 

言った瞬間、自分で「あっそうなんだ」と気づきました。

 

私は本気で、失った自分を取り戻しにいってるんだわと。

 

 

 

検証

公文を1月に入ってから娘の先生のところで始め、毎日だいたい30分程度の時間、プリントを解いています。

 

解けない問題は基本的にないので、「速く解く」「正確に解く」「暗算で途中式なしで解く」などの課題を各々のプリントに対して設けて解いています。

 

正直、めちゃくちゃ楽しいです。

 

 

でも、楽しいからこれで解決!というわけにもいきません。

 

本当に「公認会計士になりたいと思っているのか」

「動機はただの親への復讐なんじゃないのか」

「勉強時間がない中で公文をする必要はあるのか」

という問いを自分にぶつけました。

 

 

まず「これはシンプルに親への復讐」であって、「公認会計士に合格さえすれば母親は何も言ってこない」というのが動機にあるんじゃないかということ。

 

このことに対して。

 

正直、公認会計士へ合格しても、母が私に向ける否定は変わらず続くように思います。

 

たとえ弁護士でも医師でも、それでも言ってくると思います。

 

だから一番大切なことは、母が私を否定するかにつていは「否定してくる」という結論が出ていて、問題は私がそこに「揺らがない」ということと、飛んできた矢が刺さってもフンっと引っこ抜いてすぐに普通の生活に戻れることが、目指すところです。

 

そのために、まずは私が自分を信じられる状態にしたいのです。

 

 

小さい子どもなら、自信をつけさせるためには、周りが自信になるようなマイルストーンを作って達成させてと、それを少しずつ積み上げていけば良いと思うんです。

 

でも大人のそれはちょっと違って、自分が「本気でやりたい」と思うことをやりきることが、一番必要なことだと思います。

 

つまり、自分で、自分を作っていく。

 

自分を信じるには、結論としては、信じられる自分をちゃんと自分が作れるかどうかにかかっていると思っています。

 

 

少なくとも、今の私が欲している自信は、「納得できる状態をやり抜くわたし」です。

 

今週止まってしまっている10時間勉強ですが、これを自分の納得ができる質と量で私が納得できるレベルで達成することです。

 

 

正直、「合格という結果が絶対条件」ではないです。

 

自分への信頼を勝ち取るために必要な条件は、「やりきる自分」の方が絶対条件です。

 

たとえ棚ぼたで合格を得られても、私が望むレベルまで勉強しできなければ、自分の自信にはなりません。

 

これはハッキリしました。

 

 

でも。

 

そうやって「合格は絶対条件ではない」と逃げるつもりは、これっぽっちもありません。

 

 

私には、公認会計士を目指す、明確なビジョンがあります。

 

これはもう既に、いろいろと描いているものがあって、監査法人で学びたいことも、得たいものも、そして監査法人を出てやりたいことも明確にあります。

 

もちろん柔軟に、描いたものが途中で増えたり減ったり消えたりすることも前提で、幅広く選択肢を考えています。

 

これは、未来の自分への約束です。

 

公認会計士ではなくてもできる未来もありますが、公認会計士ではないとかなり狭まる未来もあるので、やはり会計士という切符をしっかりと手にしたいという、強い想いがあります。

 

 

一方で、自分の力を信じられている「仕事が好きな私」の方が、そろそろ試験に決着つけてくれと、文句を言っています。

 

現実的にも、夫も最後の切符だと言っています。

 

今年が最後。

 

これは動きません。

 

決着をつけなさいと言われ、未来の私に「こういうビジョンがあります」と見せてしまったわけで、こうなった以上は何が何でも約束を守らなければと思っています。

 

自分に対してした約束を守ること、これもまた、自分が自分を信じるためには必要なことです。

 

 

そして公文のプリントをすることは、自分の中の幼き頃の心を癒してあげることにもなり、心の支えにもなります。

 

それに、やれることはなんでもやる。

 

そんなこと意味がないと感じればすぐに止めるけれど、本当に意味があるかないかは、やってみて自分で決めることです。

 

やって、意味があったかないかは、やってみて決めます。

 

 

ということで!

 

本当の本当に、勉強に戻ります。

 

あ、でも最後に今夜(日曜日の夜)、臨床心理士の先生の予約をとってあるので、そこで最後の「おさらい」をして、それからこの件については「済」にします。

 

 

 

 

今までのブログ / 今後のブログ

ここ2年間ほどのブログは、自分の苦しい過去をさらけ出しては、何度もメソメソ、そしていつもメソメソしていました。

 

以前は、ダメな自分を見せて、「言い訳」にしていました。

 

全部ではありませんが、言い訳でブログを書いていることもありました。

 

書いて記事をアップした後に、数日後に冷静になって、「あの時の私はただの言い訳の塊だった」と気づくことも。

 

だから幼少期の公文のことも何度も書こうとしていたのですが、書いたら「合格できなかった時の布石で言い訳のブログになるな」と思い、幾度となく書いては消しました。

 

 

でも今は、考え抜いた自分をそのままさらけ出して、その上で、必ずやり抜くと自分で決めたので。

 

自分の心がとても軽くて、過去の記憶も今も変わらず鮮明にカラーで細かく思い出せますし、これはPTSDサバイバーとしては画期的な事実なので、今の自分をかなり信用しています。

 

もちろん私にはメンヘラの過去があるので、こういう↑変に確信がある自分の心はけっこう信用ならないことを知っていますし、自分の中に出てくる「自信」については、ここ数日はかなり慎重に観察してきました。

 

実際に、10時間勉強が動き始めた3日後も、「このまま最後まで突っ走る」と決めたのに、こういう事態になったので。

 

自分の心がいきなり「ちょっと待て」となることはあるわけですが、経験上それはあり得るのですが、でもたぶん、ここまで自分の心の「棚卸し」ができることはそうなかなかないので。

 

だから、これはこれで良しとしていい気がします。

 

これで、突っ走っていける感じです。

 

 

*ここまでは昨日の夕方までに書きました。

 

このブログを書いた後に、臨床心理士の先生とのカウンセリングを受けまして、いろいろ話した最後に、今回のこの私の状況を説明したところ、そこそこ驚かれていました。

 

でも、ないわけでもないようで。

 

ただ「身体の方に反動で眠気やだるさが襲ってくることもあるので気をつけるように」と、アドバイスくださいました。

 

「実際に今週はもう眠くて勉強どころではなかったです」ということと、「でももしここで心の軽さが本物ではなかったとしても、私はまたここに戻る場所があって、ダメだった時にはまた自分の心に向き合う場所を確保できているので、先生、大丈夫です」とお伝えしました。

 

 

最後になりますが。

 

今後のブログの中身ですが、これまでの、こういうきっつーい話から、少し変わるといいなとは思っています。

 

ちょっとは勉強の話を書かないと、こいつ勉強してないなと思われてしまうので。 

 

 

まあ・・・

 

ゆく先は決まっておりませんが、また読みにきてください。