わたしの公文 - ② | 子育てしながら◆公認会計士試験◆

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前回、「わたしの公文-①」でいろいろ書いた続きです。

 

 

 

 

 

プリントが全て

公文の弊害に、「公文でやったプリントの計算しかできない」というデメリットを言う人がいますが、私はこの問題点の諸悪の根源を、身をもって知っている一人です。

 

私の場合は、外で遊んだ「経験」が格段に少ないのが原因です。

 

遊びの経験がないままに、ただプリントだけを解けるようになっても、その数のうしろにある「概念」というものがついてくるわけがないのです。

 

結局、小学生の中学年後半から高学年になる頃から徐々にほころびが見えてくるようになります。

 

まさに「計算しかできない子」に育ちました。

 

 

遊びというのは思われている以上に子どもの成長にはすごく重要で、遊んで多くの物事を経験することで、学んだことを入れていく器の容量が育ちます。

 

たくさん遊んで、たくさん幅を作ることが肝心です。

 

だから逆に子どもは遊ばないと、概念理解に限界がでます。

 

中学受験で有名な講師の人がいたら、たいてい「小学低学年まではとにかくいろいろ遊ばせること」と答える人は多いです。

 

しつこいようですが、私はこの経験がほんっとうになかった。

 

 

そして極めつけは、母が、この「できない子」を、何度となく否定してきていたことです。

 

 

 

 

「あなたはできない」の声

私は勉強に関して一切の自信が持てずにいます。

 

心理的な閉塞感は、昔から今も強烈に感じています。

 

好奇心がむくむくと出てきて、いろんなことに気持ちが動くのですが、急に勉強に伸ばす手が止まります。

 

私は正直、「自分は勉強できない子」だと思ったことはなく、でも、やろうとする自分の気持ちが動く瞬間に、母親の「あなたはできない」の声が頭の中に浮かんできて、あれもこれも私はできなかったと思い出されてしまい、そうなると勉強しようにも思考が別のところに削がれてしまうか、霞がかかったように集中力と記憶力が薄れていきます。

 

いい大人が。何言っているんだか。

と、私も何度も思いました。

 

でも、親からの暗示です。

 

何年も格闘しましたが、簡単に抜け出せません。

 

 

「あんたは体が弱いから普通に会社で働くのは無理だ」というのも何度か言われました。

 

確かに幼児のころは、小児気管支炎で夜中にゼーゼーいって苦しむことはありましたが、さすがに、毎晩ではなかったです。

 

でも、私は「体が弱い」という理由で、月に3日(Maxでも1週間)しか幼稚園に行っていませんでした。

 

ゼロ出席の月も頻繁にありました。

 

幼稚園の時の出席手帳がピカピカで、ページをめくったら、見事に出席のハンコがほとんどなかったのを思い出します。

 

 

幼稚園にも行かず、ただただ私は1日、家の中で何もしないでひとりぼっちでいました。

 

少なくとも日中にゼーゼーしたことは一度もないですし、基本的には元気な状態で、日がな一日何をしていたのか。

 

母も同居の祖父母も、自分の仕事や家事で忙しくしていて、私の遊び相手をしてくれるわけでもないですし。

 

おもちゃも、今ならわかりますが0歳1歳レベルの玩具とブロックがあるだけで、たいした遊び道具は家にはありませんでした。

 

私は子どもが歌える歌もあまり知りませんでしたし、幼稚園にお友達はいませんし、近所に同い年の子がいても週末どうやって遊んでいいのかわからないかったですし、幼稚園でみんなが遊ぶ遊びも、折り紙やあやとりも、ほとんどやったことがないままに育ちました。

 

小さい頃の記憶は、2チャンネルの教育番組を見ている自分の姿しか思い出せないです。

 

 

母は「おばあちゃんがあんたは体が弱いからって言うから幼稚園に行かせられなかった」と今でもいいますが、私は祖母からそういうセリフを聞いたことは一度もないです。

 

この母の言葉を厳密に読み解けば「行かせられなかった」という選択をしたのは母で、実際には祖母から「行かせるなと言われた」わけではないことが、なんとなく透けて見えます。

 

 

結局、子どもを「朝起こして幼稚園保育園に連れて行く」という、朝の一番手間がかかることができなかったんだろうと今ではそう私の方で解釈しています。(朝に子どもをお迎えのバスまでに身支度を完了させるのはかなりたいへんなことです。)

 

ただそれを、「あんたが朝起きれないから」「あんたが体が弱いから」という理由に置き換えて、本気で自分で納得して「だから仕方なかった」と、本気でそう思っているのです。

 

自分で自分にそう思い込ませるパワーはすごいものがあります。

 

加えて、「あんたは我が儘な子」とずっと言われてきました。

 

私はそれも含めて、「私は母にも人にも我儘言っちゃいけない」と思っていましたが、ふと振り返って、私ってそんなに我儘だったか?という疑問すら最近は感じます。

 

子どもが我が儘なのは当たり前で、小さい私が、喉が乾いたお腹すいた寂しい、子どもがそれを言うのはわがままではないですし、そこにちゃんと付き合って向き合ってなんぼなのが、子育てなんですよね。

 

その一番めんどくさいことを母は放棄して、全部を私のせいにして、「あんたは我儘な子だ」と言ってきただけなんだと、最近、やっと自分が子育てをするようになって、気づきました。

 

 

 

 

その後

幼少期にできなかった理解は、年齢と共に発達が進んで、気づいたら「なんであの問題が解けなかったんんだろう」と思うぐらい、個数の輪郭がはっきりしてきて、その後は、分数の理解も、小数も、そして中学の図形も関数も、すんなり理解してしっかりと解ける時期がきました。

 

 

でも最後に一つだけ、どうしても消えないものが残りました。

 

母の本気の暗示パワーワードです。

 

「あんたは○○だからできない」

 

 

例えば「あんたは朝が起きれないから普通の会社勤めは無理だ」と私はよく言われました。

 

でも気づけば、結婚後に派遣社員で働き始めた時には、普通に起きて出社していました。

 

このように結婚をして母とは別の生活になってからは、あれは母の暗示だったのではと思えることがかなり増えました。

 

 

いや、その結婚前から、私は少しずつ母の呪縛から逃れ始めていたように思います。

 

 

やはり大きな契機となったのは、公文の教室の開設です。

 

母の自己流の公文式は「違う」と思って、私は私で別に教室をして、本来あるべき本当の公文式がしたくなりました。

 

そのためにも自分が公文とフランチャイズ契約をして、指導者として教室を開設して、公文式の新人研修を通して、ちゃんとした公文式をしっかり学んで、正確に導入しないとダメだよなと思って腹を括って始めました。

 

とにかく、母とは対等の立ち場になって、公文式指導者としての知識を身につけないと張り合えないと考えて、まずは公文式の指導者になることを決めました。

 

私は、私の教室のやり方に口出しをすることを一切拒みました。

 

しかも私が開設した教室は、新設ではなく、母の第二教室を引き継ぐ形だったので、正式に、新旧の指導者が対面して引き継ぎをする日には、特大の大喧嘩をしました。

 

その場にいた、教室の引き継ぎを支援するリクルーターの社員さんに「私は寿命が縮むかと思いました」と言わせてしまうほど、本当にぴしゃっと私は私の意地を通しました。

 

 

そうです、そこからです。

 

私は自分の立場を確保できるようになりました。

 

 

しばらくすると母は私の教室のやり方を真似るようになり、というか、元々は正規のきちんとしたやり方なんですが、それをしっかりと導入して正しい形で教室をするようになりました。

 

先日その話にふれたところ、「なに言ってんのよ、私の教室は昔からちゃんとしているわよ」と本気で言い返してきたので、もうさすがに開いた口がふさがらないとはこのことかと。

 

 

私の教室は3年4年とたつと一気に成長しました。

 

幼児(未就学児)で、2歳3歳の年齢から、翌年に入学する年長さんまで、幼児さんがたくさんいる教室になりました。

 

私は、もう自分の失敗を二度とさせてはならないの気持ちで、一人一人しっかりと観察をして、数量感覚、個数感覚、かたまりの数の感覚、文字感覚、文章感覚、いろんな認知の発達の程度をしっかりと見ながら、一人一人を大切に公文式のプリントを通してしっかりと育てていました。

 

公文以外の、子どもの成長発達認知についても、たくさん学びました。

 

私の教室では、お受験の看板は出していなかったのですが、私立小学校・その附属の幼稚園など、受験希望の子からは「合格しました」という報告をいくつもいただきました。(特に受験指導はしていなかったので、報告を受けて初めて知る子もいました。)

 

一方で、発達に障害を抱えている子どもさんもいて、その子たちも同じように、でもその子たち一人一人に合うペースで、必要な発達の程度に合わせて、公文式で育っていきました。

 

 

もう母には何も口の出しようのない教室だったと言えます。

 

それでも母は相変わらずマウントしたがり、よく私の成果を奪っていくようなことをしましたし、私はその度に本気で怒って反論するようにもなりました。

 

 

それに私自身も、不思議なことに「仕事」のことになると、母に何を言われようと苦しくはなりませんでしたし、仕事に関しては自由に意思が発揮できて、どちらかというと仕事は好きなだけ思うように自分が動けました。

 

たぶん、「仕事」に関しては、母からの否定ワードは一回も聞かされたことがないからだと思うのです。

 

それどころか、仕事に関しては感心されることもあったりで。

 

ただその分、マウントはよくされるようになりました。

 

あと、私の成果を、育てた自分の成果のようにさらっていくことも増えました。

 

とはいえ、私を否定することは一切起こり得なかったので、私は「仕事」に関しては、自由の翼を持てるようになりました。

 

 

だったらいいじゃん。

もう乗り越えたでしょ、自分の母親を。

 

で、なんで公文始めたのさ。

 

という話を、次を最後に。