前回の記事では、私が4歳の時に患った脳腫瘍のことについて触れました。
今日はその時のこと、回復の経緯などをもう少し掘り下げて書こうと思います。
腫瘍の場所は小脳。
開頭手術をして生検を採取しつつ、良性だと判明しました。
(あるいはCTの画像である程度見極めていたのか。)
若い先生からは、当時治療法の主流になりつつあった放射線治療が提案されていましたが、主治医のベテラン先生は摘出を優先させました。
腫瘍を全摘出すると車椅子レベルになってしまうため、コアな部分と周囲の浸潤している腫瘍のぎりぎりまで摘出したものの、少し残したということです。
残った腫瘍を放射線治療することはせず、良性なので、また腫瘍が大きくなった時に切ればいい…という話でした。
そして術後経過4年目、ぐらいだったと思います。
残っていた良性の腫瘍が消えていました。
母は、これを奇跡だと大喜びしていました。
仏様のお力だと。
実は私の病気が見つかる半年ほど前、母は新興宗教に入信していて、手術も術後の経過も、毎日毎朝勤行をして仏様に祈る日々でしたから、本人が仏様のお手配だと喜ぶのもわからなくもないです。
ただ、私は最近になって知ったのですが、小脳の良性の腫瘍の場合は、他の部位に比べて、術後の予後が良好な方と言われています。
また、幼児期の小脳の腫瘍の場合は、腫瘍が退縮することも1割程度あるようで、可能性ゼロの奇跡が起きたというわけではないことを、ここに付け加えておきます。
いずれにしても、腫瘍が消えたことは幸いでしたが、小脳の摘出手術をしたことは事実なので、私の運動機能はかなりバランス感覚や平衡感覚を失ったものになっていました。
両足をそろえて立って、目を開けて手を横に広げていても、それでもフラフラと揺れてよろけるレベルでした。
まずはピアノ。
退院してしばらくしたら、すぐに始まりました。
それから小学生になると、冬には近所のアイススケートリンクに連れて行かれ、スケート靴を履いたまま、リンクの「外」を、手すりにつかまりながら延々と歩かされました。
スケート靴を履いているにもかかわらず、歩くのは氷の外で、人から見れば滑稽だったかもしれません。
何度か連れて行かれましたが、徐々に氷に立つようになり、氷の上を手すりにつかまって歩くようになりました。
アスレチックは大の苦手でしたが、機会があれば登るように促されましたが、怖くてほとんど登れませんでした。
小学3年生の頃になると、今まで乗れなかった自転車に、補助輪なしで乗れるようになってきました。
小学5年生になると、ミニバスのチームに入って、練習の最後尾を必死になってついて回って練習しました。
スキーにも叔父が連れて行ってくれて、スキー場が提供している基礎コースでしっかり基礎を身につけました。
運動はどれをやっても運痴でしたけど、「下手でもやる」という感覚は当然のように思ってチャレンジしていたような気がします。
そして何を考えたのか…
中学の部活では、器械体操部に入部しました。
バク転とかしちゃう、あれです。
で、私が1年生の時に、ちょうど部活の先生が他の中学にうつり、新しい先生が異動してきたわけですが、その先生が、器械体操の元国体選手で、弱小部も関東大会に進出する常連校にさせることで有名な先生だったため、練習風景が一変しました。
私が入部前に見学した時には、マット運動の延長程度でしたが、次々と器具が買いそろえられ、床マット、跳び箱、平均台、平行棒が設置されるようになりました。
練習内容も、朝練から遅くまでびっしりでした。
私にとって人より優れていたのは、柔軟性だけでした。
でもそのおかげで、だんだんとできる技が増え、3年生になるとバク転が補助ありで飛べるようになり、あと一歩というところまで来ました。
平均台も、ジャンプをしたり、側転や後方ブリッジ回転をしたり、片足回転もできるようになっていきました。
でも怪我をしてしまいました。
バク転の完成まで間近だったのが泡と消え、中学総体では団体のレギュラーメンバーから外れてしまい、私の中学3年は終わりました。
ちなみに団体メンバーは県で優勝して、関東大会まで進みました。(関東大会3位は一つ下の学年から。)
という経歴を話すと、小脳の腫瘍を切ったなんて話は嘘だと思われることがよくあります。
20歳になった時、当時、東京で大学生をしていたので、近所の開業している脳神経外科のクリニックに飛び込みで、CTを撮ってもらったことがあります。
「君、本当に手術したの?」
そう先生に言われてしまうほど、脳が隙間なく詰まっていたので、本当ですよ!と後頭部の手術痕を見せたほどです。
ただ、すごいことが起きたなという感覚は・・・
いやいや、やっぱり、正直ないです。
自分が幼少期に、びっくりするほど運動ができなかったことは覚えていますし、人より劣っている感覚はいつもありました。
手術した記憶も間違いなくありますし、開頭手術のために、4歳で坊主にしましたし、手術室に入った記憶もあります。
手術が終わって、ビニールに囲われているICUで、苺のショートケーキが食べたいと我儘を言って食べさせてもらった記憶もあります。
小学1年生の時には、転ぶときに手が出せなくて膝から転んで、両膝を擦りむいて、治る前にまた転んで、また手が出せなくて両膝が膿んでしまったこともあります。
皆んなが自転車に乗っているのに、自分は小学生で補助輪付きなのが恥ずかしくて、自転車に乗るのは止めました。
みんなが「普通〜にあることが自分にはない」という感覚はいつもありました。
でも幸いなことに、だから悲観することもなかったですし、何よりも親が「この子は可哀想」という素振りをしなかったので、自分が不幸だと思う瞬間はありませんでした。
今年のお正月に、ゲッターズ飯田さんの占いブックで、「苦労のサイクルに入っても、マイペースゆえに苦労が普通の生活になってしまっている人」とあったので、ちょっと納得してしまいました。
そういう気質が根っからあるのだとしたら、私はそれで救われてきたところがあると思います。
ただ一つ、自分なりに気にしていたのは、「将来の夢が持てないこと」でした。
幼稚園の卒園式の時からそうだったのですが、将来の夢を聞かれても、ポカンと浮かんでこず、その時だけだと思っていたのですが、それはずっとずっと変わりませんでした。
自分が大人になる、ということが想像できませんでした。
20歳になった時、やっと「自分は大人になるのか」と気づいて、その想いを勢いに、脳神経外科のクリニックで、過去を確認するためにCTを撮ってもらって、そしてその時から、やっと私の中で大人が始まったような感じになれました。
自分がこうして回復したことは、奇跡ではありません。
でも、稀なケースだと思います。
小脳が認知症の大脳の機能を代替することは症例としてありますし、大脳の神経路が損傷部位とは別に経路を作る症例もあるようですが、ただまだ、それが「どうやったらそんなことができるようになるか」ということは分かっていないのが現状だと思います。
自分の症例が役に立つのならと思ったこともあるのですが、ただ、手術のカルテは10年程度で破棄されてしまいますし、小児脳腫瘍は腫瘍の種類も多様で、治療法も多岐にわたるために、ひとくちに小脳の腫瘍でしただけでは、なんの参考にもならないのも口惜しいところです。
悔しいのですが、でも、ずっとチャレンジし続けたことは役に立ったのではないかと、個人的には思っています。
可能性が必ず結果につながるわけではないのですが、可能性だけなら、自分でコントロールできる範囲にあります。
そして、自分の中には、諦めない自分と、どこかで諦めて現実を受け入れている自分の、両方がいたことも事実です。
どうしても出来ないのにそれを正面から受け止めるのは苦しくて、いつまでも諦めない自分は、つらすぎます。
諦めつつ、何も考えず、体だけは動かしていました。
相反する心を、両方とも認めていました。
もし今、自分が車椅子だったらと考えることはありますが、その時も、きっと何かしら脳に良さそうな運動は続けていそうな気がします。
「人にはあるけど自分にはない」
というものが私にはたくさんありますが、でもその中で、自分にできそうなことを、できる範囲で頑張ることは、すごく自分の生活を充実させてくれます。
みんなと同じものがあれば安心ですが、なくても、自分の人生を不幸にすることはありません。
自分を不幸にするのは、自分を傷つける自分自身と、自分を傷つけようとする他人だけだと思っています。
普通にあるものが自分にないからといって、それが不幸なことではないことに気づけた時に、人生はかなり楽になりました。
ただ、そこに気づくのにすごく遠回りをして、すごく辛いことはいろいろあったので。
あまり真正面から物事を捉えすぎず、でも歩くのをやめずに、やっとここまで来れたように思います。
相反する心…頑張る心も、諦める心も、両方大切です。
私には。
何だか、話のオチが見えなくなってしまったので。
唐突ですが、長い昔話もここまでにします。
読んでくださり、ありがとうございました。