皆さんは、中国の伝統芸能の「変面」ってご存知でしょうか?手にした扇や袖を一瞬顔の前にかざしたら、顔に付けていた面が変わっているって言う凄技です。しかも、何回も何回も変わります。筆者もその昔初めて見た時は、ホントビックリしました。勿論、今見ても凄いんですけど。
「変面」とは、中国四川省の地方劇「川劇(せんげき)」と呼ばれる伝統芸能の中で行われた技で、一子相伝の秘伝。その昔、周恩来が川劇で変面を見て感激し、国家2級機密にしようと言ったとか。今では国家機密でも、一子相伝でもなくなっている様ですが、流石に至る所に「変面」教室が有ると言う様なシロモノでは無いですね。今回紹介する映画『變臉(へんめん)/この櫂に手をそえて』(『變臉』1996年 中国、香港合作 )は、その「変面」の使い手の老人と、幼い子供の関係を描いた作品です。
本作の制作年は、香港の中国返還を翌年に控えた1996年。この当時の香港映画界では「大陸ブーム」が起こり、中国大陸でロケを敢行した作品が連続していたとか。本作の香港側の制作プロダクションはショウ・ブラザース。かつては香港映画界を一身に背負っていた大会社だったが、ショウ・ブラザースを独立したレイモンド・チョウがゴールデン・ハーベスト社を立ち上げ、ブルース・リーと契約を交わした事で、すっかりその地位を持っていかれてしまう。1985年には一旦映画制作を中止するに至り、1990年代は年間一本程度の制作と言う状況だった。本作は、ショウ・ブラザースが久々に注目された作品だった。2016年には中国のメディア王と呼ばれている人物を会長に迎え、本格的に映画制作を再開、と言うニュースが在ったが、その後盛り返せているのだろうか?
因みにタイトルは「變臉(へんめん)」となっていますが、「變臉」は日本語で読むなら「へんれん」です。中国語での発音は「biàn//liǎn」となります。「変面」は日本語に直した言葉です。
町の人々から「変面王」と呼ばれている王(ワン)老人。しがない大道芸人ではあるが、その変面の芸は折り紙付きの一流で、川劇の女形の大スターで「生き観音様」と呼ばれ敬愛されている梁素蘭(リャン・スーラン)にも、尊敬される程である。
とは言え、道端で芸を見せ投げ銭を貰い生活をしている王老人、異名は立派でも貧乏である。川に浮かべた小舟が自宅と言う水上生活を送っている。見かねたリャンから、自分の一座に入る事を勧められるも、「気儘に一人で大道芸を続けられればそれで良いです」と断ってしまう。しかし、「その芸も後継者が無く途絶えさせてしまっては勿体無い」との言葉に、考えを改める変面王。
三十年程前に、「貧乏暮らしはイヤ」との理由でカミさんに逃げられ、男手一つで男の子を育てていたが、その子も十歳で亡くなってしまったと言う。それ以来後継者の事は考えていなかったが、「生き観音様」のお言葉である。養子を迎える事にした。
子供を売買する市場に赴く変面王。この当時の中国(劇中では明確にされないが、監督曰く、1920年代半ばから1930年代初頭)では、様々な事情で子供を手放さねばならない人達が多かった様で、大勢売られてます。人身売買と言ってしまうと非常に悪いイメージではあるが、「食べさせてくれるだけで良いです」って言って、泣きすがる母親の姿を見ると、貧乏な自宅に置いて死なせるよりは、なんとしてでも生きていて欲しいと言う親心を感じて複雑である。
さて、養子を探しに市場へ行ったのは良いが、手ごろな子供が見つからない。変面の後継者は代々男子のみ。しかし、男の子は働き手として家に残される事が多いだろうし、居ても高かったりして貧乏な変面王には手が出ないのである。だが、居たのである。当初の値段の半値で良いから引き取って欲しい、と言う男の子が。しかも元気そうだし、「じいちゃん」と慕って来るし。変面王もすっかり相好を崩して好々爺と言った感じでデレデレである。また変面王の見た目が、ツルッパゲの上に、上の前歯が一本抜けてたりして実に良い感じなのよ。そんなお爺ちゃんがニコニコしてるんだもの、なごむでしょ。
これで後継者が出来た、と大喜びの変面王だったが、この狗娃(ゴウワー)と言う名の子供、実は女の子だったのである。やっぱり、半値なんて言う甘い言葉には裏が有るのである。後継者は男の子でなければいけないと言うのに。貧乏な変面王にとっての大枚はたいて買った子供が後継者にならないと知り、がっくり来ちゃって「出て行け」ってな感じなんだけど、ゴウワーはゴウワーで、「女はいらない」って理由で六回も七回も色んな家をたらい回しにされて来たみたいで、初めて優しく接してくれたのが変面王だったそうな。女の子だって知らなかったから買ったんだけどね。人買いにやられた怪我を見て本気で怒ってくれる変面王である。基本的には優しいので、追い出す事はせずに、下働きとして置いてくれるのだった。
女の子だって分かったので、服も赤いのを買ってくれるし、髪の毛もおさげにし(それ迄は男の子みたいな短髪だった)、ちゃんと女の子の恰好をさせてくれる変面王。下働きさせてるけど、すっかりお爺ちゃんと孫。ただし、呼び方は「お爺ちゃん」から「旦那様」に変わったけど。躾もしっかりしている。貧乏な変面王の為に、好きなお酒を盗んで来たゴウワーに対して平手打ち。「泥棒や物乞いをしないで生きて来られたのは、芸が有ったから」と、変面は教えてくれないけど、雑技団の様な芸は仕込んでくれた。
しかし、平穏な日々は長くは続かなかったのである。変面王の留守中に、興味津々で火の下でお面を観察していたゴウワー。うっかりお面に火を燃え移らせてしまい、船の住居部分を燃やしてしまうのである。
さてこの後、変面王とゴウワーの運命や如何に。と、こんな感じのお話です。
変面王を演じたのはベテラン舞台俳優の朱旭(チュウ・シュイ)。映画やテレビドラマへの出演は少ないが、上川隆也がブレイクする切っ掛けとなった、中国残留孤児がテーマのNHKドラマ『大地の子』(1993年)で、上川隆也の中国人養父を演じていた。
狗娃(ゴウワー)を演じた女の子は周任瑩(チョウ・レンイン)と言う、撮影当時八歳の雑技団に所属する女の子。オーディションでは気に入った子役が見つけられなかった監督に、友人が連れて来たのが彼女。「甘やかされた小さな芸達者たちとは異質な存在」と言う理由で起用を即決したとの事。両親は麻薬の常習者で、父親は売人でもあり、育児放棄の末に四歳で雑技団に入れられたんだとか。撮影終了後は、彼女を使って一儲けを企んだ母親が、雑技団から勝手に連れ出し一時行方不明に。結局上手く行かず、再び別の雑技団に入れられていたのを何とか探し出し舞台挨拶に間に合わせた、等のエピソードを聞くと、「怯え、人間への不信感が有り、最期まで心を開く事は無かった」と言う監督の言葉が非常に良く分かる。そうなるよ、そりゃ。この後は、映画等に出演したと言う話も無いので、雑技団で過ごしたのだろうか?変面王の様な良い人に出会い、普通に育った事を願うばかりです。
本作を監督したのは呉天明(ウー・ティエンミン)。元々は俳優として舞台や映画に出演していたが、その内に助監督もする様になり、本格的に演出を学ぶ為に北京電影学院監督科に通う。1979年二本の共同監督作品を発表し、1983年『標識のない河の流れ』で単独監督デヴュー。1984年『人生』の高評価とヒットにより西安電影製作所の所長に任命される。この所長時代に、所謂「中国第五世代監督」と呼ばれる、陳凱歌(チェン・カイコー)を『黄色い台地』(1984年)で、張藝謀(チャン・イーモウ)を『紅いコーリャン』(1987年)で監督デヴューさせている。その他にも何人もの有望な若手を指導し、監督デヴューさせた「第五世代の師」である。
本人も、1987年『古井戸』を発表、国内外で高評価を得たが、1989年の天安門事件を切っ掛けにアメリカに移住。大学で映画の講義を持つかたわら、中国映画のレンタルビデオ店を経営。この渡米時代に「何故、アメリカ映画は世界の中心に存在し、中国映画は辺境に置かれているのか」を研究する為、アメリカ映画を観まくり、中国映画と比較したとか。本作公開時の来日インタヴューで「中国映画は、物語が作為的で重く、娯楽性に着眼していない」「難しい顔で哲学を説教する様な映画では一般の観客は喜んではくれない」と言う様な事を語っていた呉天明監督。渡米前の『標識のない河の流れ』『古井戸』は、貧しい人々の暮らしをドキュメンタリータッチで、社会批判も盛り込みつつドラマティックに描いた傑作だったが、確かに批評家受けはしても、広く一般に受けるのは難しそうな作品だった。
帰国後初めての作品が本作。だいぶ取っ付き易い作風に変化している。遺作となった(呉天明監督は2014年に逝去)『ソング・オブ・フェニックス』(『百鳥朝鳳』 2013年)は、伝統的な楽器の嗩吶(suǒnà)=チャルメラ(日本での呼び名。あのインスタントラーメンのおじさんが吹いているヤツの事である)奏者の師匠と弟子のお話。伝統文化と師弟関係と言う題材は本作と共通する物が有る。本作と違ってこちらは現代が舞台。中国の伝統文化への思いが込められている。映画の終わりで弟子の吹く「百鳥朝鳳」の曲は、師匠への鎮魂曲であると同時に、近代化の中で失われゆく伝統への鎮魂曲でも有るのだ。
『變臉~』も『ソング・オブ~』も、どこから見ても中国的な内容で、尚且つ分かり易い作りとなっている。呉天明監督は、「積み重ねた経験(アメリカ映画を観まくった事)は、血となり肉となったが、自分の根本は変わる事はなく、撮る作品は中国映画である」とも語っていた。
自分自身の良い部分や、譲れない芯の部分はその儘に、他からイイトコ取りをして自分の物に出来れば、理想的な変化と言う事で、それを進化と呼ぶのだろう。本作制作時の呉天明監督は既に50歳代半ば過ぎ。それでも進化したのである。筆者も見習わなくてはいけないと思う今日この頃です。