皆さん「尊厳死」と言う言葉をご存じだとは思うのですが、昔は「安楽死」だったんだよね。今ではこの二つの言葉には線引きが出来ていて、大雑把に言うと「尊厳死」は患者本人の意識が無くなった後も、体に機器を取り付けて強制的に延命を施すのを拒否する事。「消極的安楽死」との言い方もされる様です。「安楽死」には細かく分ければ更に三種類有るそうですが、ここでも大雑把に「安楽死」を説明すると、助かる見込みが無く、苦痛を除く手段も無い様な患者に対し、薬物投与等をして命を縮める事、となります。どちらにしても、患者本人の意思が重要視される訳で、生前に書面で「リビングウィル」と呼ばれる意思表示を残しておくと面倒が無いとか。
そんな「尊厳死」をテーマにした映画が、今回紹介する『この生命(いのち)誰のもの』(『 Whose Life Is It Anyway? 』 1981年 アメリカ )であります。
ボストン市内の公園内に設置する彫刻を制作していた、新進気鋭の彫刻家ケン・ハリソンは、その日の作業を終え、車で帰路に就く途中、暴走したトラックと衝突し大怪我を負ってしまう。辛うじて一命は取り留めたものの、首から下が全く動かせず、しかも毎日四時間の透析を受けないと、その命も保てないと言う状態となってしまう。初めの内こそ気丈に明るく振る舞っていたケンだったが、自分の意思では何一つ出来ない事に苛立ちと絶望を感じる様になって行き、死なせてくれる様訴えるのだった。しかし、主治医であるエマーソンは、医者として、患者の命を一秒でも長らえさせる事を信念としていた。到底ケンの願いなど受け入れられる訳がない。ケンも自身の考えを曲げずに弁護士を呼び、「死ぬ権利」を求める訴えを起こすのだった。果たして、ケンとエマーソン医師の主張のどちらが認められるのであろうか?
と、こんな感じの内容です。本作は、ブライアン・クラークが、同題のテレビ作品( 1972年 イギリス )用の脚本を基に映画化した物。映画が制作される以前には舞台化もされており、1978年にロンドンで、翌1979年にはアメリカのブロードウェイで上演され、同年日本でも劇団四季により上演されている。1979年の初演以来何度も上演されているので、映画版の本作は知らなくても、舞台版でご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
監督はジョン・バダム。テレビドラマの監督としてデヴューし、1930年代のニグロリーグ(1960年代迄アメリカに存在していた黒人のみの野球リーグ)を描いたコメディ『 The Bingo Long Traveling All-Stars & Motor Kings 』(1976年)で劇場用作品初監督。この作品が好評を博し、次作の『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977年)の大ヒットで一躍人気監督に。『ドラキュラ』(1979年)を挟み本作。その後も『ブルーサンダー』『ウォー・ゲーム』(共に1983年)と好調にキャリアを積む。この様に見て行くと基本的に娯楽作の監督と言う印象で、本作だけがちょっと異色のシリアス路線となっている。とは言っても、他の作品も娯楽作と見えて、意外と社会派なテーマを孕んでいる気がする。1990年代後半からは再びテレビでの仕事ばかりになっているが、2020年にも、80歳を超えて監督して頑張っています。
主役のケン・ハリソン役にリチャード・ドレイファス。『アメリカン・グラフィティ』(1973年)の主役で一躍人気スターとなり、『ジョーズ』(1975年)の海洋生物学者役で若手演技派俳優と呼ばれる様になるも、本作撮影時には重度の薬物中毒状態。本作撮影時の事は全く記憶に無いとか。「クスリ、ダメ、ゼッタイ」ってヤツですよ。
医師のエマーソンを演じたのはジョン・カサヴェテス。役者としての代表作は『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)。個性派俳優として高い評価を受けているが、監督としても、初監督作の『アメリカの影』(1959年)をはじめ、高評価を受けている作品は数多い。『グロリア』(1980年)では批評家だけではなく、一般的にも高い評価を受けた。筆者も大好きです。
本作、実に難しいテーマだと思う。首から上しか動かせず、尚且つ意識も頭もしっかりしている、となると相当苦しいであろう。それは充分理解出来る。以前は、その辛さが想像出来るし、本作でのリチャード・ドレイファスの真に迫る演技が共感を呼び、そう言う考えも「有り」なのかなぁ、などと思っておりました。しかし、筆者もすっかり歳を重ね、平均寿命で考えればとっくに折り返し地点を超えている。健康寿命と言う点から言えば更にだいぶ手前で折り返している。実際に、筆者の近しい人や友人なども具合が悪くなったり、亡くなったりしている。筆者自身も、健康診断すればナニかしら引っ掛かるし。そう、そんなこんなで、若い頃よりも「死」を身近に感じる年齢となったんですよ。そうすると、どうせ放っておいても人はいずれ死ぬんだから、自ら死を早めなくても良いだろう、と考えが変わって来たんですね。
自ら死を選ぶ事を「有り」としてしまうと、自殺もOKって事になっちゃうと思うのよ。やっぱり、死ぬ迄は生きるべきなんじゃないのかなぁ、と思うんだよね。況してや、この主人公は首から下が動かなくはなったけど、それ以外は健康体な訳だし。頭はちゃんと働くし。彫刻家だったので、手を使っての作業が出来ないのは辛いだろうけども、もっと違う生き方も有るのではないだろうか、と思うのよ。自分がその立場になったら、そりゃぁ、当然ガッカリ来るとは思うよ。でも、暫くの間だと思うなぁ。筆者、結構逆境好きなんだよね。変態なんで。
本作の主人公は年齢設定が32歳。まだまだ、青年と言っても良い年齢。彫刻家と言う、自身の夢を叶え、更にこれからの活躍を期待されている、なんて状況ならば、その絶望感は計り知れないとは思う。しかし「動けなくなってしまったので死にます」では、先天的に障害を持って産まれて来た人達は?と、言う事になると思うのである。
世話をする家族に負担が掛かる、と言う意見も有るだろう。確かにそうなんだけど、金銭的な問題ならば国の福祉で何とかして貰いたいものだと思うし、大体、人は誰かしらに負担を掛けて生きているのである。全く誰の手も煩わさずに生きています、とは絶対に言い切れないのである。だからこそ、自分も誰かを負担しなければいけないのではないか、なんて事も思ったり。世の中ってそうやって成り立っているんじゃないかなぁ、と思うのであります。
日本では1976年に「安楽死協会」(現在は「日本尊厳死協会」) が、イギリス、アメリカに次ぐ三番目に設立されている(と、劇場用パンフに書いてあった)。しかし、日本では「死」についての話はタブー視されて、家族間でも話し合われる事が少ないのではないだろうか。この問題も教会設立から50年近く経っても、なかなか一般的な議論が進んでいるとは言えないだろう。誰でも一度は必ず迎えるのが「死」である。一回はこの問題に向き合ってみるのも良いのではないでしょうか。