*追記しました。
震災を乗り越えて ソチにかける羽生結弦選手(下)
を(上)(中)の次に追記しています。
あろうことか
記事のリンクも入れ忘れていました。
すみません。
あと、長らくブログを書いていなかったので、コメント欄に近況を書いておきます。
ありがとうございます。
今日は二つ記事を紹介します。
保存しておきたいのでコピペさせていただきます。
【震災を乗り越えて ソチにかける羽生結弦選手(上)】
仙台のリンクで被災…絶望からの復活を支えたのは地元の人々だった
2014.1.31 10:19
氷上に右手を着き、「ロミオとジュリエット」の曲に合わせてピタリと止めたスピン。一瞬の静寂の後、割れんばかりの歓声に包まれた。昨年12月22日、さいたま市のさいたまスーパーアリーナ。フィギュアスケートの全日本選手権で、19歳になったばかりの羽生結弦(はにゅう・ゆづる)選手が、ソチ五輪出場を確実にした瞬間だった。
代表に決まった後のインタビューでは「五輪に向けてしっかりがんばりたい。完璧な演技を目指したい」と気を引き締めた。
「震災を乗り越えてよくここまで戦ってくれた」。前橋市の自宅のテレビで羽生選手の演技を見つめていた群馬県総合スポーツセンターのスケートリンク管理者、新井照生さん(50)は感慨にひたった。
このときから約2年9カ月前の平成23年3月11日。羽生選手は、新井さんが当時支配人だった地元の仙台市泉区のスケート場「アイスリンク仙台」で練習していた。突如、東日本大震災の激しい揺れに襲われ、施設内は停電に。氷は波打ち、壁一面には大きな「く」の字の亀裂が入った。
羽生選手は一緒に練習していた選手に助けられ、やっとの思いで施設外に逃げた。スケート選手の「命」とされるスケート靴の刃にカバーをつけないままでの避難。この靴は使えなくなり、練習拠点も失った。
「こんな苦しい思いをしたうえに、スケートで苦しい戦いなんて、もうしなくていいよ」。このときの心境を羽生選手は著書『蒼い炎』(扶桑社)にこう書いた。
被災時の恐怖心に加え、朝晩欠かさず練習してきた大切な場所を失った喪失感…。震災直前のシニアの国際大会で2位になるなど、ソチ五輪に向かって急成長を遂げてきた競技人生は大きく揺さぶられた。
リンクは16年12月に経営難で一度閉鎖したことがある。しかし、このリンクで育った荒川静香さん(32)が2年後のトリノ五輪で金メダルを獲得したのを機に、19年3月に再開。そのときから支配人になった新井さんは「前回閉鎖したときとは、まるで状況が違った」と振り返る。
震災直後は、施設内で唯一損傷していた壁だけを修復すれば復旧できる見通しだった。ところが、震災1カ月後の大きな余震で壁が崩れてコンクリートの塊がリンク上に落ち、氷が溶けてむき出しになっていた冷却用のパイプが破損した。
新井さんは「マイナスからのスタートになってしまった。もう再開は無理だ」という状況にまで追い込まれた。加えて、月平均で200万円の電気代がかかる運営費。「スケートはレジャーの一つ。電力不足の状況で再開なんてとんでもないことなのでは」との葛藤も芽生えた。
そんな中、リンクに寄せられた多くの声。「羽生選手は大丈夫なの?」「練習はできているのか」。震災後、仙台を離れ、各地を転々としながら練習を続けていた羽生選手を心配するファンからのものだった。
「ゆづのためにも早くオープンさせたい」。新井さんはこう決意し、4カ月後の再開にこぎ着けた。
24年3月11日。復興演技会が開催された震災1年の節目の日に、羽生選手は再びリンクに足を踏み入れた。「お帰り」。新井さんは到着した羽生選手に思わず駆け寄った。「またここで滑ってくれる日がくるなんて」。感極まる新井さんやファンが見守る中、羽生選手はこうスピーチした。
「1年でここに戻って来られたのは、多くの人に支えられたおかげだと思う。この日にみんなにこうやって演技を見てもらえることが本当にうれしい。1年でこれだけできるなら、これからももっと復興に向けて頑張りたい」
震災後、苦悩してきた羽生選手だが、競技続行への揺るぎない決意を感じさせた。羽生選手は著書の印税もこのリンクに寄付。「結果を出して、被災地の力になりたい」と地元への思いを強めているという。
2月14日午前0時(日本時間)に始まるショートプログラムで、いよいよソチのリンクに立つ。テレビ観戦するという新井さんは「ゆづの五輪での舞は被災地にとってこれ以上ない勇気になる。楽しんで演じてほしい」とエールを送った。
https://www.sankei.com/region/news/140131/rgn1401310015-n1.html
【震災を乗り越えて ソチにかける羽生結弦選手(中)】
「逃げたくない、最高の技見せる」都築章一郎さん、精神的サポートで復活導く
2014.2.1 09:01
「僕も家族も大丈夫です…」。電話から聞こえてきたのは、今までに聞いたことのないか細い声だった。横浜市神奈川区の「神奈川スケートリンク」専属インストラクター、都築(つづき)章一郎さん(76)が東日本大震災後、羽生結弦(はにゅう・ゆづる)(19)と連絡が取れたのは発生から3日後だった。
「充電がなくなってしまう」と言われ、1分もしないうちに切れた電話から、「無事で良かったが、想像もできない大変な思いをしているのだろう」と事態の深刻さを悟った。
再び連絡があったのは、約2週間後の平成23年3月末。羽生の母親から「そちらで結弦を見ていただけないでしょうか」と頼まれ、「すぐにでも来なさい」と即答した。「結弦をつぶすわけにはいかない」。そんな危機感があった。
■恐る恐るリンクに
選手だった都築さんは大学卒業後、指導者に転身。昭和52年に東京で行われた世界選手権で日本初の銅メダルを獲得した男子選手らを育ててきた。
15年前、4歳の羽生は仙台市泉区のスケート場(現アイスリンク仙台)で練習する4つ上の姉についてきた。これを機に、当時スケート場の支配人だった都築さんの指導が始まった。
「野球選手になりたい」。当初、スケートへの興味は薄く、5分も練習すると飽きてしまった。だが、高い身体能力と柔軟性に加え、教えた振り付け以外の動きが自然と出てくる類いまれな表現力があった。負けん気の強さもあり、「フィギュアスケートの感性を非常に兼ね備えた子だ。この子はきっと世界一になる」と確信した。
初めての演技は大好きだった「ウルトラマン」の曲で作った。フィギュアに興味を持ってもらえるよう心がけたのだ。指導は中学3年まで10年余り続いた。
羽生が都築さんのもとを離れてから1年後に震災は起きた。23年3月末に横浜のリンクで再会した羽生は筋肉が落ちて体が一回り小さくなっていた。リンクに恐る恐る立とうとする姿からは、精神的なダメージの大きさがうかがえた。
氷の上で余震に襲われ、誰よりも早く施設外に飛び出したまま練習に戻らなかった日もあった。両親には「このままスケートを続けてもいいのだろうか」とこぼしたことも。それを耳にした都築さんは「もう元には戻れないかもしれない」と不安を抱き、精神的なサポートを続けた。
■取り戻した情熱
サポートもあり、羽生は4月の震災チャリティーショーに出演。これをきっかけに、スケートへの情熱を取り戻していく。そのときの心情を著書『蒼(あお)い炎』(扶桑社)に記している。
「これから試合が始まったら、羽生は地震のせいで成績が落ちた、なんてことにはしたくない。もちろん自分が被災者の代表であることの誇りは絶対に失いはしないけれど」
3日に1回のペースで全国各地のショーに出演しては横浜に戻り、一般客のいない午前6時と午後8時から1時間ずつ練習に打ち込んだ。オフシーズンが終わる10月までに計60公演に出演。ショーでも難しい技に挑戦し、4回転ジャンプの技術も磨いた。
「どんなときも最高のパフォーマンスを見せたい。この状況から逃げたくない」。羽生からこう打ち明けられ、都築さんの不安は次第に消えていった。24年3月には世界選手権で初のメダルを獲得。羽生は試合後、報道陣に「僕は支えられている立場だからこそ、ここまでできたと思う。被災地の方々の応援をようやく少し受け止められたのかな」とはにかんだ。
羽生が小学2年のころ、都築さんは「世界で羽ばたこうな。一番になろうや」と語りかけたことがある。ほほ笑みながらうなずいた少年は今、その約束を果たそうとしている。
https://www.sankei.com/sports/news/140201/spo1402010057-n1.html
ソチにかける 羽生結弦選手(下) 「全力出し切って、笑顔で終わりたい」
2014.2.2 14:00
平成23年4月9日。羽生結弦(はにゅう・ゆづる)(19)は、神戸市中央区の市立ポートアイランドスポーツセンターのスケートリンクにいた。約1カ月前に起きた東日本大震災のチャリティー演技会に出るためだった。
リンクのあるポートアイランドは神戸港内にある土で埋め立てられた人工島。7年1月の阪神大震災のときは、液状化現象が起きて島全体が水浸しになるなど大きな被害が出た。リンクも所々に段差や亀裂が生じて閉鎖に追い込まれた。
あれから16年3カ月。スケート靴を履き、リンクに立った羽生の目に飛び込んできたのは、約2700人で埋め尽くされた観客席やまばゆい照明、真っ白な氷だった。
「この神戸のように、再び明るく温かい街に戻れるかもしれない」。東日本大震災後、初めて観客の前で演じた羽生。被災して練習拠点を失ってから1カ月になろうとしていたこのときに、故郷復興への希望を見いだしていた。
演技後は休むことなく、3時間にわたって他のトップ選手らと寄付を募った。オークションも含め、この日集まった寄付は計約1270万円に上った。
◆「絶対咲かすんだ」
演技会で感じた復興への思い。採点や勝ち負けがなく自由に表現できるエキシビションやアイスショーでは、その思いが全身からあふれ出た。
24年9月に福井県越前市で催されたアイスショーで初披露したのは、『花になれ』という歌に合わせた演技だった。昨年末に五輪代表に決まった後のエキシビションでも披露した。
もともとは時代劇の主題歌だった『花になれ』。作詞・作曲したシンガー・ソングライターの指田郁也(さしだ・ふみや)さん(27)は歌に込めた思いを「どんな場所でも咲く花のように、生きていく中で直面する困難を乗り越えてほしい」と説明する。羽生は「自分の思いと通じるところがあって心に純粋に入ってくる特別な曲」と起用を決めた理由を指田さんに話した。
振り付けを頼んだ振付師の宮本賢二さん(35)には「まるで花がリンクに咲くように、見た人が笑顔になれるように演じたい」と日本語の微妙なニュアンスも伝わる表現を求めた。振り付けを決めていく際には、思いの強さが出過ぎて宮本さんから「そこはもっとゆっくり。花を見せるところなんだから」と助言されたこともあった。
膝から崩れ落ちそうになりながら持ちこたえ、涙をふきながら、再び力強く滑り出すシーンも組み入れた。「『絶対に花を咲かすんだ』との気持ちが強く感じられる。本当にいいものにしてくれた」。宮本さんは完成した演技を初めて見たとき、そう思った。
◆夢の舞台で大輪に
米誌スポーツ・イラストレーテッドの最新号のソチ五輪のメダル予想では、日本勢としてジャンプ女子の高梨沙羅(さら)(17)とともに金メダル候補に挙げられた羽生だが、混戦が予想されている。
2002年ソルトレークシティーから3大会連続でメダルを獲得しているロシアのエフゲニー・プルシェンコ(31)のほか、世界選手権3連覇中で最大のライバルと目されているカナダのパトリック・チャン(23)も出場する。
それでも、宮本さんは「自分のためでなく、誰かのために、何かを伝えたいと思って演じ続けてきたことが、今の彼の力につながっている。ソチ五輪でも表彰台の一番上に立てる」と話す。日本代表になった後、「一生懸命、全力で出し切って最終的にいい笑顔で終わりたい」と報道陣に語った19歳。夢だった五輪の舞台で大輪の花になる。
連載は西尾美穂子が担当しました。
https://www.sankei.com/sports/news/140202/spo1402020041-n3.html
上の記事は
ソチの直前に書かれているんですよね。
名前もさほど知られていなかった羽生選手。
名前にふり仮名がうってある。
震災に遭い
繊細な心がどれほど傷付き
心身ともにボロボロになってなお
スケートを続けて
ソチにまで至っていたか・・・・。
二つ目の次の記事は
毎年
3月11日に、この新聞記事について
再アップしています。
自分自身が忘れないように。
あまりにも衝撃的だったこの記事
3月11日だからこそ
書き起こしてです。
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆
羽生の演技がメッセージ
2014 2月17日
月曜日 読売新聞
オリンピックという名の
歓喜と失意の生命のドラマ。
その中で、
五輪取材11大会目の筆者にして、
初めて体験する記者会見があった。
フィギュアスケート男子で
自身の喜びではなく、
人々のために
自分に
何ができるのかという葛藤を
赤裸々にぶつけたからだ。
国内外の記者が詰めかけた会見場は、
その重さに静まり返った。
「涙が出そうになった。
どこの19歳が、
あんな深いことを言えるだろう。」
いつもは辛口の
友人の米国記者が、
筆者にそういった。
羽生は言う。
「震災後スケートができなくて、
本当にやめようと思った。
生活することすらも精一杯の、
ぎりぎりの状態。
たくさんの方々に支えられて、
こうやって今この場所にいる。
だから、感謝の気持ちを持っていたい。」
「(金メダルを取ってもあまり笑顔がないのは)
自分に何ができたんだろうかと考えていたから。
僕一人が頑張っても、復興の直接の手助けにはならない。
無力感さえ感じる。」
自身の体験を通じ
被災地の痛みの深さを知る羽生。
だからこその思いであり葛藤だろう。
でも無力感とは。
スケートを再開したとき、
きっと誓ったはずだ。
自分にできるのは
スケートだけだから、
選手として努力を尽くすことで
人々を支えたい。
最高の環境をトロントに求め、
ストイックなまでに
練習に打ち込んできた。
羽生が急成長を遂げてきたのは、
自分のためだけでなく、
被災地の人々に
何かを伝えるという大きな目標が、
使命感となって
一つの目標にささげる力。
それが羽生の生命の強さの
原動力でもあった。
でも、
五輪で最高の結果を得た今、
それで被災地の何を変えられたのか。
そんな戸惑いが
言葉になったのだろう。
羽生選手に伝えたい。
確かにスポーツの力は
直接被災地を再建することも、
人々に衣食住をもたらすこともない。
でも、復興は、
突き詰めれば
人の力で一歩一歩
築くものだとすれば、
一人ひとりの
心のありようで進み方は
違ってくるはずだ。
あなたの成し遂げたことを、
心の糧にしてくれる人はきっといる。
私たちは選手とともに祈り、
ともに感じることで、
自分を重ね、力を見出すのだから。
大切なのは、あなたが信じ、
伝え続けること。
思いを定め、
努力を重ねれば
何かをつかめるのだと。
人の絆は、力なのだと。
皆に届けと命を削って舞った、その姿以上に、
強烈なメッセージはないのだから。
金メダルというのは
地位ではなく、
その力の象徴なのです。
スポーツと人の心の力。
形のないものが、
実は最も大きな変化を呼ぶ。
どうぞそれを忘れないで。
〈結城和香子〉1962年東京生まれ。読売新聞編集委員。国際オリンピック委員会(IOC)の取材を担当し、現地特派員として五輪を取材。著書に「オリンピック物語」等。
http://honto.jp/netstore/pdbook_26023705.html#productInfomation
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私はソチで羽生選手のファンになり
貪るように
情報を追っていた時
新聞を読んでいて
目に入ったのがこの記事だった。
衝撃だった。
いま読み返してみて
「あなたの演技がメッセージだ」
と言われていたのが
今では
日本中のみならず
世界中から
「あなたの生き様がメッセージだ」
と言われてもおかしくない存在になった。
10代からのほんの
数年で到達してしまったこと。
改めて
二つの記事を通して読んでみて
そこに至るまでの過程
その生き方に凄味を感じる
2連覇は羽生君にとって
どうしても必要なものだったんだろうな。
志を貫くためにも必要なこと。
私は
自分のできることしかできないけど。
いつも思い起こさせてくれる。
日常の感謝を思い起こさせてくれる。
ここ最近では
ラインスタンプ、ものすごいアイディアだよね。
でもそうやって、支援のきっかけを途切れることなく、
忘れずにいさせてくれて
その機会を与えてくれる羽生君。
志を成し遂げていくって
いいことばかりじゃない
ずいぶん前だけど、UAに書かれた言葉
conquer myself!!
自分に打ち勝て。
自分の弱さを見つめての言葉なんだろうな。
ほんとうに自分に厳しい人だ。
そのような
羽生君の努力に
命を懸けた努力に
復興に賭けた思いに、行動に
どれほどの人が救われているだろう。
2連覇を成し遂げて
それを生かしていくと言っていたよね。
どんどんこれからも
壁を乗り越えて
志を貫いていくんだろうな。
すこしでも
そんな羽生君の思いを
大切にできるファンでいたいなあと思う。
羽生君に
毎日、幸せが巡っていますように
一つ一つの夢が叶いますように
ありがとう
はっぴー。









