昨日書いたのが、二度の手術まで。
で、その後。
翌年の秋までは、本当にフツーに生活していました。
ただし、手術して半年経過した頃にリンパ節転移が発見されました。
それでも、母の希望でフツーに生活していました。
秋に、母が湯あたりを起こしてしまいました。
救急車で運ばれた総合病院は、かかりつけではない医院でした。
3日で退院したものの、母の身体はほぼ動けない状態。
そこで、廃用症候群を起こしてしまったようでした。
ケアマネージャーやかかりつけ医に相談して、取り敢えずリハビリ……とショートステイに入れたものの、そこで「病院で診てもらった方がいい」と判断。
手術でお世話になった総合病院へ再入院。
1ヶ月間かけて、廃用症候群からの拘縮をリハビリである程度動けるように回復させました。
が、この日を堺に歩くことが出来なくなり、車椅子生活に。
要介護度も、手術受けた当時は“2”だったのが“4”に引き上げられました。
病院の社会福祉士さんやらリハビリ担当さん、母の担当ケアマネさんやデイサービスの職員、福祉器具レンタルの担当さんと数回話し合いをして、退院させました。
3ヶ月、要介護度4の母を家族で世話しました。
入院期間中はおしめを当てていたのですが、退院後途中からトイレで用を足すことに母がこだわり始めました。
歩くことは出来なかったものの、掴まって立つことが出来ていたからでした。
結果、それが介護する側の最大の悩みの種になってしまいました。
夜中に何度も「トイレ行きたい」と起こされてしまい、同居していた父と私はストレスを感じていました。
そして、暫くしてから食べこぼしも段々と酷くなってきました。
口腔リハビリもやってはみたものの、改善はせず。
その結果、病状悪化もあってか、母が激痩せしてしまいました。
今年になって、ストレスフルになった父が母に手を出すようになり、母も思い通りにならないからか物を投げつけるようになってしまい、夫婦喧嘩。
1月下旬に手術後の定期診察が予定されていたのですが、この頃には私も我慢が出来なくなっていたので一週間早めて受診。
担当外の先生に母を診てもらったのですが、翌日に嚥下検査の予約を入れてもらえました。
嚥下検査で総合病院内の耳鼻咽喉科で診てもらったところ、飲み込む力が無くなっていることが発覚。
外来で診てもらっていたので、診察直後に予約していたショートステイ先へ母を連れて行き、その間にケアマネさんと地域包括支援センターの職員さんが我が家に来られて、そこで両親のことを報告。
話し合いの途中に、姉が家に来て
「ショートステイ先から、酸素濃度が低いから病院で見てもらった方がいい、と電話あった」
と報告。
その後に家にもショートステイ先から電話が掛かってきたので、そこで母を迎えに行き、そのまま総合病院へ救急で入りました。
その時、有り難いことに手術を担当した先生の診察を受けることが出来、そのまま入院することが決定。
入院後はCT撮影を得て、5日後から緩和ケア病棟でお世話になりました。
最後の入院期間中、始めの1ヶ月で口腔リハビリを受けていたようでしたが、暫くして終了。
最期の3ヶ月間、点滴だけで過ごしていました。
皮肉ですが、緩和ケア病棟に母が入ったことで我が家のストレスフルの介護生活から開放されました。
反面、その時点で余命宣告も受けていたので、別の意味でのストレス生活がありました。
今現在は、母の遺骨は我が家の居間に鎮座しています。
5月下旬に、四十九日の法要と納骨が予定されています。
それ以外でも、母に関する手続きがいくつかあって、なんか慌ただしいです。
それでも少しずつ、母がいなくなった生活は積み重なっていきます。
私の中にある虚しさがいつ消えるか、正直わかりません。
でも、今は日々自分なりに生きて、一つずつ任務をこなすしかないんですよね。
取り敢えず、残された父と共に、近所に住む姉に頼りつつ生活していくしかありません。
そうそう、もう一つオマケを書くと。
姉の息子(私の甥)が結婚、一昨年には息子が生まれていまして。
姉がおばあちゃんになったんですよ。
今は亡き母も、ひ孫をめちゃくちゃ可愛がっていました。
あの世から、ひ孫の成長する姿を見ていてほしいな、と思ってみたりして。
(´;ω;`)ブワァ