私達家族は2年前、14年勤めた会社を退職し、約20年過ごした東京を離れ、沖縄に引っ越ししました。

当時三姉妹は長女6歳、次女3歳2カ月、三女が生後1か月のときの記録です。

子どもたちの保育園も始まり、末娘も無事に生後1か月を迎えた頃、家族全員がコロナに罹患。

みんな検査をしましたが私と兄だけは生き残り、実母も主人も三姉妹もみんなコロナ。

せっかく始まった新生活、最初からズッコケます。

ようやく家族みんなが治った頃、すでに五月下旬。6月も目の前でした。

私は無事に出産を終え、その時に患った妊娠高血圧症候群妊娠糖尿病のアフターケアも終了。

旦那さんも心療内科の病院を継続せず。。
唯一の夫婦での頼みの綱の傷病手当受給終了となるのでした。

かなり焦った私は生後1か月半の赤子をかついでハローワークへと通い詰めました。

相談をすると、失業手当は産後2ヶ月ほどからしかもらえず。。しかも待機期間があるとのこと。。
どうやっても約3ヶ月間はお金が入らなくなる。。

相当焦っていました。

旦那さんの病院を探しながらとにかくいい方向へと行く道、そして家族を守るための資金繰りを考えていました。

役所や自治体で事情を話し、納税の免除の延長手続きや相談、夫婦無職による手当や補助が出ないかと情報を集め早急にいい方法を探し始めます。

しかし生活保護を受け取るにも今の状況では難しい。

収入がなくても蓄えが少しでもあればもちろんのこと、生活保護は受給できない。
生活費が底をつかないともらえない。
他の補助もなんにもない。。滝汗

世の中の生活保護の方はこんなにもお金がない、明日食べることも出来ないくらい経済的に困窮してるのかと当時は初めて知ることになるのでした。

それはそうですよね。。
貯蓄はあるのに収入がないだけで受給されていたら…チーンとんでもない。
この世の中は大変ですもんね。。

そもそもの話、旦那さんの実家に引き上げる話はどうなったのか。

夫婦で何度もそのことについて話し合うことになります。

帰るなら、長女が小学校にあがるタイミング。
あと半年もしないうちに固めて就学前検診やら準備することがあるのでは?

すると。。
帰らない!!戻らない!の一点張りの旦那さん。

焦る私。

帰らないし戻らないし、病院にもいかないし、かといって仕事もできる状態ではない。
そんな中、動かざるを得ない出来事が起こりました。

次女、退園問題です。
私は産後なので免除されましたが、夫が無職ということもあり、来月末で退園にまで差し迫りました。

もう自分がどうこうできる問題ではなくなり、腹をくくります。

せっかく楽しんでいる保育園。
次女には申し訳ないけれど。。と腹をくくり、それでも家庭を支えるべく内職はしなければならないと思い、ネットで完全在宅の仕事を探し始めます。

一方旦那さんは個人事業主としてこれからは進みたい旨を打ち明けてくれました。

初めはキャッチフレーズを考えたり、文章を書くお仕事を少しずつやり始めました。

個人事業主として登録し、役所で勤務証明書を提出しました。

預けられる時間はとても短いですが退園せずに済み、一安心したことを今でも覚えています悲しい
当時は夫婦で喜びました。

仕事に置けなくなり、早くも8ヶ月以上が過ぎようとしている頃でした。

退職や引っ越しなど様々なことを乗り越え、ここまで動けるようになったことは凄いことでした。

産後のホルモンバランスが不安定だった私は夜も不眠不休の授乳とのこともあり、体調も全く整わず、眠れず不安だけが襲いかかり、自分の体が自分のものになっておらず。。

全く夜が眠れずに居ました。

1.同居している状況をどうにか切り離したいこと
2.産後でもすぐに働きたいこと

夫は実家に戻る気持ちが今は無い。。
あとでまたつめるにしても、とにかくすぐにでも内職を探さねば。。

たまには気分転換にと夫婦で安いアパートの見学にも行きました。

夫は別居に乗り気ではなく。。
おばあちゃんがいる環境をとても気に入っていました。
自分たちにとっては最悪でも、娘たちにとっては最高の環境だというのです。

冗談だよね?
こんな苦しい気持ちでこの空間で毎日を送れるのか??
私には無理だ。

私は両親ともども心が健康的でないと、子どもたちにとってもいい環境ではない!と考えていました。
家族7名がプライベート空間を保てるような広いお家ではありません。

大人たちが気をもみながら生活をすることは間違えていると思っていました。

少し不便でも電動チャリもある、送迎で困らない程度の所に何軒か物件を見に行きました。

とても狭いけれど月に三万台ならどうにか出来るかもしれない。。

二人で周るうちになんか引っ越しするとなると気持ちがとても楽になってきたなぁ。
虚ろだった旦那さんがそういうのです。

やっぱり苦しかったんだよねとお父ちゃんの気持ちがわかり、思わず心がぎゅっとなりました。
これは普通じゃないよ。
こんなにガマンして生きることは間違えてるよ、子どもたちはいつも私達が笑ってないとだめなんだよとお話しながらの内覧でした。

物凄く安堵したような悲しそうな顔で自分の気持ちを少しずつ話すお父ちゃん。

そうだった、この人はどんな環境にもグッと我慢してくるんだった。
だからだ、だからギリギリを超えても頑張ってしまうんだったよと。。
その時思うのでした。

同居解除に進めようにも審査がなかなか通りません。
夫の職業欄。
個人事業主の登録では難しいのかと。。
それでも諦めずに探し続けました。

それと同時に旦那さんがフランチャイズに挑戦したいと懇願してくるようになりました。

何度も何度も話し合い、どうしても今の精神的な状況では応援できない旨を伝えましたが、わかり合うことが出来ません。

当時旦那さんは、自営業をやるならこのタイミングだと決めていたのだと思います。
退職金を頭金にし次にステップアップするこのタイミングに夢だったやりたいことをする。

物凄く単純明快な理由だったんだと思います。
しかし、自分の気持ちもコントロールできない、いつもの旦那さんの状態とはほど遠い様子にこれは難しいと判断しました。

もともと子煩悩な旦那さん。
いつ何時でも、誰よりも何よりも子どもたちが大事なのです。
しかし、余裕がないほどになっており、子どもたちにも必要以上に怒鳴ってしまう毎日。
暴言を吐いてしまったり大声を上げたり。。
泣いてしまったり。。

日によって寝室からもでてこれない日もありました。
送迎もままならない、子供たちの面倒を見ることもままならないこの様子に、(同居という最悪な環境も大いにあるけれど)自分で会社を運営するということはどんな環境でも一人でどうにかしていかないといけないこと、しかも金銭の管理だって自分でやらねばならない。

会社に雇われるのとは全く違う。
何もかもが一人でやらねばならない。
全て自分の責任。
経営なんて良いときのほうが少ないだろう。
そんな環境に今、挑戦させて耐えられるのか。

絶対に難しい。
リスクが大きすぎる。。何千万と負債を最初から背負ってまでやることではない。。

どの方面からどう考えても私は旦那さんが独立したい、フランチャイズ経営をしたい気持ちを応援できませんでした。

何よりとにかく同居というこの環境から切り離すことのほうが先では?と考えていました。

それでもフランチャイズを進めようとする旦那さん。

思いの旨を何度も打ち明けますが、まるで聞く耳を持ちません。

きっとそれはお父ちゃんも同じことを思っていたと思います。
なんでわかってくれないんだよ!!!!
お互いがお互いそう思っていました。

こんな時にこんな状態で今やることではない。
このタイミングしかチャンスがないんだよ!!
どうして今なの?体調が良くなってからでも遅くはないよね?
今じゃないともう一生出来ないんだよ!
子どもたちにリスクを背負わせることは出来ないよ。
心の病気が良くなってからじゃないと応援できないよ。

お互い譲りません。

離婚してでもやりたい。
お願いだからやりたいことをやらせてほしい。
その言葉にプツッと心が折れてしまいます。

言葉が出てきませんでした。
私達がいらないのならば、もう何も言葉が出ない。。好きに生きてくれと話をします。

私は実家から出てシングルで子どもたちを育てる覚悟をしなければなりません。

自分はどんなに寄り添う気持ちでも、相手がもう一緒にいれないと。。
そう言われるともう修復不可能です。

今まで約17年、どんな困難も乗り越えてきたのにここで。。ここで終わりになるのかと。。

お互い意図せずここに来たのに。。
あんなに自分を犠牲にして守ってきたのに。。
やることなすことすべてが自分の理想の反対に向かいます。

退職金も好きにしてくれと投げやりになり頭金の支払を終えた。

もちろん私の退職金諸々はこの1年で出産費用や入院費用、生活費諸々を補っていたので全てなくなりました。
どうして私の人生、いつもこうなるんだろう。
今までの1年間が急に虚しくなります。

もう地獄。
こんな生き地獄いつまで続くのかな〜なんて思いながらも。。
ただでは倒れていられないと。。
その時に出来ることをすべてをやり始めます。

当時もブログには何事もなかったかのように楽しい日々だけを書き続けました。

いつまで耐えるのかな、これ。
旦那さんが布団から出られなくなったあの日からもう少しで1年。

到底1年とは思えない長い長い年月が経ったような気持ちでした。

産後2ヶ月は全く覚えておらず。。
可愛い3女の成長をゆっくり見守る余裕もなく日々を必死に駆け巡りました。

旦那さんは旦那さんで色んな事を考え、一つ一つクリアして行くことに必死。
今考えると、お互いがお互いに必死に生きていました。

決して誰も悪くない。
誰のせいでもない、運命のいたずらとも言える事が何個も何個も重なり、今の形になったのです。

どうしょうもなく、何にも誰にも矛先が向けられないため、夫婦が真剣に全力でぶつかります。

当時沢山の気持ちを話し続けてお互い後悔はしていないと思います。

私達は交際をスタートしてすぐに私の病気がわかりました。

当時旦那さんはまだ20代になったばかり。
思えばスタートから波乱でした。

色んな事を乗り越えてきた人生の苦楽をともにした仲。
それがこんなことで崩れるとは思っても居ない、決して私だけではない、夫婦ともども苦しくて辛い時間でした。

そんな中、賃貸申込をしていたアパートの管理会社から連絡をもらいます。

ズンさん、入居審査が通りましたよ。いつから入居希望ですか?

真っ暗闇の中、かすかな光。
少しずつ少しずつ前に前にと動き始めたのです。

※私達は更に絆が強くなり、今は以前にも増して団結力が強くなっていますニコニコ
いつもそっと見守ってくださり、感謝をしています。

同じように配偶者が意図せず精神的な病気になっている方や、そうじゃない方、様々な方がいる中。。
少しでも前に進むきっかけ、お力になれればと思い記録しています。

ずっとこのままではない。
必ず希望が見えてくるはずだと、毎日たくさん喧嘩をして、妥協をせずにお互いが家族のために進めていることが出来ています。

やっぱり思いやりは大切だなと思います。

ーつづくー