私達家族は2年前、14年勤めた会社を退職し、約20年過ごした東京を離れ、沖縄に引っ越ししました。

当時三姉妹、長女が5歳、次女は1歳11カ月、そして私は第三子妊娠中の出来事を記録しています。


私は当時、妊娠高血圧症候群、妊娠糖尿などのありとあらゆるトラブルを抱えていたこともあり。。

引っ越しの翌週に即入院となりました。

ストレス外傷の影響が血圧や血液検査の数値にもろに出ているというような説明。
本当は今日から入院してほしいというところを転入届やらその他のたくさんの手続きがあるため、引き伸ばしてもらったのでした。

たしかにこの半年近く、自分の体のこと、赤ちゃんのこと、決して蔑ろにしたわけでもないですが身体に大きな負担をかけていました。

一番大切にするべき赤子と自分の身体を後回しにせざるを得ない状況になっていたこと。。
本当は優先順位が1番なはずなのに、最下位となっていたこと。。

引っ越しをして安心したのか気が抜けたのか。。
物凄くホッとしてすぐに入院です。

引越の手続き、会社への退職願いや挨拶、お父ちゃんと同じ会社で不幸中の幸い、そんなに動き回りませんでしたが都内では最後の最後までお片付けを始め、子どもたちの保育園の手続きから区役所での手続き、そして引っ越しの上での断舎離や荷物まとめなど。。

1か月、2ヶ月でものすごいスピードで駆け抜けていきました悲しい

切迫ということもあり、本来ならば入院のところ。。
家に一人でおいておけないほどお父ちゃんは確実に弱っていました。

娘たちもその異変には感づいており、長女は約2ヶ月あまり。。笑顔もなく言葉数も少なくなり、保育園の先生方や友達にたくさん助けてもらいなんとか都内で過ごしている状態でした。

いつもならばなんとでもなる、いつか落ち着く!!大丈夫だ!と思う楽天的な性格が。。
妊娠していたこともありかなりの不安定。
ホルモンバランスの崩壊と共に自分の体はもうお手上げ状態でした。

入院すると数値はみるみるうちに安定し、インスリンがなくなりました。
インスリンが無くなるとまた体調は良くなり、気分も数値も安定してきました。

しかし。。退院するとまた悪化。
同居となると、家にいる限り、実母にも兄にもお父ちゃんにも物凄く気を遣う日々で生き地獄

全く生きた心地がせずに、気がつくと体重も18キロ減り。。
この私が標準体重にショボーン
大人のみならず長女も次女も全員痩せましたゲロー

こんな身体で赤子は成長してくれているのか、なにか影響があるのではないか。。

どうか無事に。
問題なく元気に生まれてきてくれと日々それだけを祈るのみでした。

私が入院してる時、新天地でお父ちゃんは娘二人をつれて電動チャリで移動しながら遊ばせていました。

物凄く過酷ですよね。
自分の心も体もなかなかコントロールできない中、ワンオペ生活ですから。。

道もわからない、言葉も地名も意味不明。
普通じゃない非日常の生活に。。
もちろん心はもっともっとやられていきます。

お父ちゃんは娘たちを連れて実家に帰ることになりました。

今思うとのんびり帰省させてあげてよと思う。。
ゆっくりしてきてと見送らないといけないのに。。えーん

当時はどうして娘たちを振り回すんだ?
やっとの思いで。。ここまできたのに。。

普段は全く思わないのに、退院する日がいつになるかわからない分、不安もあり、ホルモンバランスの関係もあり。。
もう子どもたちもお父ちゃんもみーんな私から離れていってしまうのでは?と、ものすごく心配になりましたえーん
なんだか全てが不安で仕方がありませんでした。

次女の2歳の誕生日も一緒に祝ってあげられず。
テレビ電話でのやりとり。
入退院を繰り返し、いよいよ母子ともにギリギリだとのこと。
管理入院中に話しあい、陣痛促進剤を投与することになりました。

もう切腹(帝王切開)でも何でもいい、とにかく早く母体と分離させて赤ちゃんも私も安心させて欲しい。

夫婦無職のパワーワードがあり、病院でもソーシャルワーカーがつきました。

悩み事や不安なことたくさんお話しながら毎日のほとんどを泣いて過ごしました滝汗

金銭面、身体のこと、赤ちゃんのこと、娘たちのこと、お父ちゃん病気のこと、早く復職しなくてはならない、お父ちゃんが倒れたから私が全てをやらねば!!と毎日同じことばかりを考えていました。

更には同居の解消を早めに進めたく、産後も確実にハードな日々が安易に想像つきました。

みんな大人たちはギリギリラインでの同居生活でした。

そんなふうになったのは全て自分のせいだと。。毎日のように自分を追い詰めていました。

そんな中、(当時も今もですが)義父母さんの存在は私の中でとても大きく、私の心の拠り所となっていました悲しい

ものすごく迷惑をかけて、引っ掻き回し。。
もう嫌われても良い、とにかく家族を守らねばならない。。そんな思いで日々必死。

どうにかお父ちゃんの病気を良くすることが先。
お父ちゃんだけをとにかくゆっくり休ませ、娘たちを保育園に入れ、通常生活を取り戻し、お父ちゃんが元気になる頃にまた向こうの実家に追いかけて行くのが1番いい!
と私は思っていました。

しかし絶対に自分の実家には引き上げないというお父ちゃん。
ならば病院に行ってゆっくり療養してくれと話しても、それも絶対に嫌だ。
じゃあどうするんだと。。
その話し合いの繰り返しですショボーン

どうすればうまくいくのか、元気になるのかお父ちゃんはどうしたいのか。
私ができることは何なのか。
物凄く考えました。

同居解消をすべく、とにかく実家から一刻も早くでたい。そして今より居心地良い場所を作りたいと思っていました。
何が優先なのかも分からない、私はお父ちゃんが、動かないというのならばもう早めに働くしかない、とにかく働いて同居を解消することを目標に動かねばと。。
初めての転職はうまくいくのか、赤子を抱えての転職のハードルの高さ。
保育園問題など。。

生まれる前に心配しても仕方のないことを考えては毎日毎日これからの未来に不安を抱き。。
入院時は病室の天井とにらめっこをしていました。

そしていよいよ末娘が産まれます。

我が家の希望の光です。
家族が大変なことになり、今考えてみると彼女が家族の先頭に立って舵取りをしていたのかもしれないなと思います。

お父ちゃんの過酷な生活、仕事を退職に導いたことも、私の体を休ませようとして切迫やありとあらゆるトラブルはありましたが、ゆっくりしてくれとのメッセージだったのかもしれないなと、本当に今となってはですがアセアセ
そう思ってしまいます。

この人たちはどうやっても動くことをやめないなと思った赤子は都内を離れさせてやる!!と懸命だったのかもしれないですね。
お腹の中からたくさん見ていたのかもしれない。

2年の歳月が経ち、今となってはそう思うのです。

環境や状況は過酷でしたが、小さいと言われていた赤ちゃんはそんなこともなく。
元気いっぱい!
陣痛促進剤を入れる前日に破水をおこし、余計なことしないでよ、私は私が産まれたい日に産まれるのだから!と言わんばかりの物凄いスピードで産まれましたニコニコ

入院してるのに分娩台では産まれず(スピード過ぎて間に合わない)ベッドの上で産まれました。

その逞しい姿にどんなにホッとしたか。。悲しい

今までずっとゴメンネの気持ちが沢山。
いつも近くで守ってくれてありがとうの気持ちで涙が止まりませんでした。

出産はどんなときも命がけですが、本当にこんな居心地の悪い母体で、過酷な環境で。。
よく無事に生まれてきてくれたなぁと。。悲しい

本当に奇跡だなと思うのです。
小さいのにどんと構え、カメラを向けるとピース。

やり遂げたぜ!やってやったぜ!と言わんばかりの表情に、お母ちゃんまだまだ負けてられない。これからもしっかり頑張らねば。家族を守らねば!!!と強く思うのでした。

今は夫婦ともどもおかげさまで無事に再就職し、子どもたちも元気いっぱい学校に通っています。
当時もその前からもずっと見守ってくださった方々に感謝が止まりません。
いつもありがとうございます。

〜続く〜