わたしの尊敬する師が、

その昔こんなことをおっしゃってました。

 

 

 

かつて大虐殺が行われたという、

まさにその時、その場所に

おられたそうです。

 

そして、ご自身の知る限り

大虐殺というものは

 

経験していないし

見ていないし

聞いていない

 

 

 

けれど、

日本に帰ってきてそのことを話しても、

誰も聞いてくれなかったと。

 

 

その話をされた時の、師の

悲しそうな、悔しそうな、無念そうな、

やりきれない様子を、

わたしは今でも忘れることはできません。

 

 

 

そのとき、わたしが痛感したのは、

 

歴史はつくられる

 

ということです。

 

 

 

 

例えば、この日本でも、

藩同士、武将同士の争いは

数えきれないほどありました。

 

 

現代に生きるわたしたちは、

そのことを歴史の授業や

小説などで知るわけですが、

それらは、そもそも歴史の文献を

元にしています。

 

 

 

それでは、その歴史の文献は、

誰が書き残したのか?

 

 

戦いの状況を把握できて、

なおかつ書き残せる人物というと、

それは勝った側の人間でしょう。

 

 

負けた側で、

書き残せるような立場にいた人物は、

たいてい殺されるか

自害しているでしょうから。

 

 

そして勝った側は、おそらくは

自分たちのしたことを正当化するような

書き方をするでしょう。

 

 

 

そうして歴史はつくられてきたし、

これからもつくられていくのです。

 

 

 

 

だって、

完全に平等・公平な見方のできる

人間なんていないから。

 

 

 

 

 

ところで、

わたしはアンケートなどの職業欄は、

『主婦業』としています。

 

 

確かに仕事もしているけれど、

それでもやっぱりわたしの生活の大半は

主婦業で占められているからです。

 

 

そんな主婦業のわたしでも、

 

新聞

ニュース

ワイドショー

電車等の中吊り広告など、

 

毎日多くの情報や

情報の切れ端に触れています。

 

 

その中から、どの情報を採用するか?

 

 

 

氣になるものは、ネットや本などで

自分なりに調べます。

 

 

でも、

どんなに調べても、

どんなに人に聞いても、

それは『自分なりに』でしかありません。

 

 

行きつく先は結局

 

 

 

わたしは、こう感じる・思う・考える

 

 

 

です。

 

 

 

 

 

先日の『思いつきのひと言』で、

 

 

自分が正しいと思うことは、声高に叫ばない

 

 

と書いたのは、そういう意味です。

 

 

 

 

 

自分がどんなに

正しいと感じ・思い・考えることでも、

それは『自分なりに』でしかない。

 

 

わたしは、そう思うのです。