先日、父の病気について書きました。

 

 

 

 

肺の病気を患っていて、風邪をひいたら重症化してしまうので、なかなか人に会うことができません。

 

病気になる前は、近所のテニスクラブで知り合った人たちと週3でテニス。

 

週2ほど、スポーツクラブで知り合った卓球仲間とランチもしていました。

 

社交的なので、行く先々で友達を増やして行った父。

 

けれども、入院してからというもの、テニスや卓球ができる状態ではなくなりました。

 

それと同時に、テニスや卓球でつながっていた友達との連絡は途絶えました。

 

 

 

 

しかし、そんな父の所に尋ねて来てくれた人たちがいました。

 

1人は、PCRを検査を受け、その後、1週間は家族以外とは誰とも会わないようにして、父に会いに来てくれた人。

 

もう1人は、インターフォンが鳴ったので出てみると、ご夫婦でデパ地下で購入したお肉や果物をたくさん持って訪ねていらしたようです。

 

こちらに気を使わせないように、わざと連絡をしないで来てくれたのでしょう。

 

遠方からなのに、万が一にも病気をうつしてしまわないようにと、玄関先で帰って行かれました。

 

 

 

お2人とも、父の大学時代のテニス部の友人でした。

 

社会人になってからは、年に数回会うかどうかという感じだったと思います。

 

友情は、会う頻度には比例しないなと思いました。

 

やっぱり学生時代に、数年間、毎日会っていた友達というのは別格で。

 

部活など、一緒に苦楽を共にした仲間というのは、かけがえのないものだと感じました。

 

娘(高1)が、「バイトがしたいのに、部活が大変すぎてできない。」とボヤいていますが。

 

部活を続けることによって形成される友情は、バイトで稼ぐ小銭とは比べられないほど価値があると私は思っています。

 

 

 

 

人生で、私のためだけに開催される2大イベント。

 

結婚式とお葬式。

 

結婚式は、こちらから招待して来てもらうのだけど、大好きな友達が私のために集まってくれて、本当にありがたくて幸せな1日でした。

 

お葬式は、完全にその人の意思で来るかどうか決まります。

 

また、結婚式のように前もって日にちが決まっているものではなく、何の前触れもなく、急に知らされるセレモニー。

 

参列するかどうかは、ひとえに故人への思いの強さ。

 

不謹慎ですが、もし私が死んでしまったら、あの世から自分のお葬式の参列者を見たいなと思いました。

 

自意識過剰なだけかもしれませんが、なんとなく、ただなんとなくですが、自分にとって意外な人も来てくれる気がするのです。

 

 

 

 

「何年も会っていないのに、来てくれてありがとね。」

 

 

 

そんな風に思わなくてもいいように。

 

 

生きているうちに、忙しくても、遠方であっても、せっせと会いたい人には会うようにしたいと思います。