うーたんパパさんのリブログ記事「「地頭爆縮」の考察1 過去の栄光の残照」の続きです。


前回のお話


最初に書いておきますが、本邦の社会システムは「疑似的社会主義」なので、組織の「従業員」をやっている限り「桁」で報酬に差がつくことはありません。まさか東大生や京大生がそんなことを知らずに生きてきたとは思えませんが、念の為。


さて、このブログで以前にも書きましたが、東京大学は「コスパ」は最悪の大学です。本ブログの過去記事を引用すると、



(過去記事引用)

東大の理科Ⅰ類、文科Ⅰ類に入学する為に必要な勉強量を100とすると、同系統の学部で比較した場合、京大85、その他の旧帝大75くらいになると思います。このあたりの「体感」は、各大学の過去問でご確認いただければと思います。


東大入試は共通テストと合わせて科目数が多く、問題の難易度も高く、勉強に質と量の両方が必要です(一部の天才除く)。東大以外の旧帝大で普通の公立中高ルートで合格する学生が多数いるのに対し、東大の合格者に私立の中高一貫校が多くを占めるのは、この「合格するのに必要な勉強量」の差であると思います(普通に公立高校のカリキュラムをやっていたら、現役受験時には間に合わない)


入学するまでに相応の勉強量がいる割に、卒業後に「サラリーマン」「公務員」になった後の待遇の差はないので、就職を目的とした場合、コスパは悪いです(職に就くまでは有利です)。


東大の女子率を上げる方法(その3)

(過去記事引用終了)



その「コスパ」を少し掘り下げて考えます。


コスパ = 卒業後に得られる待遇/必要な勉強量


と考えます。そして「必要な勉強量」は「地頭の良さ」に反比例します。

「東大カンタン詐欺」の発生メカニズムの考察に出てきたモデルを流用すると、東京大学には次のような「地頭ランク」の学生が存在します。



(過去記事引用)

さて今回、東京大学に入学するのに「学力:1000」が必要だと仮定します。そうすると、地頭ランク3⃣4⃣5⃣の人の、必要とされる努力値は、次のようになります。


地頭ランク3⃣:地頭力100×努力値10

地頭ランク4⃣:地頭力1000×努力値1

地頭ランク5⃣:地頭力10000×努力値0.1


「努力の強度」は、本人の地頭力に反比例します。地頭が良いほど努力しなくてもいいわけです。そして恐ろしいことに、東大生の少なくない人間が、このモデルでいう地頭ランク3⃣の上位層、地頭力500~800くらいにあったりします。

そうすると努力強度が1~2の間くらい、卑近な例で言うと「中間テストの結果が悪かったから期末テストの勉強頑張った」くらいの(主観的)努力で、東大に入ってしまうことになります。


「東大カンタン詐欺」の発生メカニズムの考察

(過去記事引用終了)



この努力レベルが「0.1~2」程度の人間にとっては、在学中も卒業後も「たかが東大」なのです。そして、そこまで努力しなくても得られた「東大卒」という学歴の効果で、「恵まれた待遇のサラリーマン」になれるなら、主観的には「コスパ」は全然悪くないのです。例えて言うと、小学校の夏休みの読書感想文をちょっと頑張って書いたら賞金100万円もらえた!みたいな感じです。


これに対して、努力レベルが「5~10」の人間にとっては、多くの苦難の末ようやく手に入れた「東大」という肩書なのです。そのような人たちにとって、「東大卒」という学歴の効果が、「恵まれた待遇のサラリーマン」にしかなれないから、主観的には「コスパ」が悪いのです。例えて言うと、日本からハワイまで海パンだけで泳いで渡った賞金が100万円!みたいな感じです。足りないよ、と思うのも無理はないでしょう。


後者は、大学に入学するまでに払った「主観的コスト」が大きかったが故に、自分が得る「対価」も高くないと「主観的コスト」と釣り合わない、そう考えます。

実は「そこまで手間をかけずに大企業に就職できたこと」「社会人のスタート時に良いポジションを得られやすいこと」こそが対価であり、既に支払いは終わっているのですが、彼らは小中高と「苦労した成果」がその程度では満足できないので、いつまでも「努力して得た学歴」に拘ることになります。


また、社会人にとっては「学習能力の高さ」「学識の高さ」は「能力の1つ」でしかないのですが、「学習能力の高さ」を評価されてきた期間が長すぎた為、大学を卒業して「学習能力の高さ」だけが評価軸でない「セカンドキャリア」がスタートしているのに、まだ「学力が評価された最初のキャリア」の栄光にしがみつくことにもなり、これが不遜な態度にも繋がることになります。


こうして「自分の頭脳や苦労が報われていない」と感じる「地頭爆縮」が、多大な苦労をして大学に入学した人たちに発生します。




ついでに書いておくと、卒業後も学歴に拘る傾向は、理系職より文系職でより顕著であるという気がします。考えられる理由をいくつか挙げると、


・理系職は学生時代の学力/学識がそのまま社会での業務能力に繋がっている領域が広いので、自分の能力を仕事の成果で示す機会がそれなりにある。「実力」は学歴ではなく、業務遂行能力と結果で示せばよい。


・文系職は「完全なセカンドキャリア」になる場合が多く、自分のそれまで培ってきた学力/学識が仕事に結びつく部分が少ない。この為、少しでも他の組織メンバーと差別化する為、またプライドを満たす為に「学歴」を使いたくなる。


・「高学歴」を手にするまでに必要な要素は、理系は「才能」の比率が高く、文系は「努力」の比率が高い。理系の高学歴は、大学入試の段階で「才能」の足りない人間がある程度入れないようになっているので「努力家」の割合がもともと少ない上、自然現象や自然科学の前には経歴(学校歴、受賞歴)など何の役にも立たないことを大学での学業や研究を通じて実感するので、ぶっちゃけ学歴などどうでもよくなる。


本ブログの過去記事「地頭シャッフル その2」に書いた内容とも繋がっています。




以上、「地頭爆縮」の考察をおこないました。その3では、ではどうやって中学受験、高校受験、大学受験に向き合えば良いのか、を考えます。