うーたんパパさんのリブログ記事をもう一つ(笑)。



*本稿はフィクションです。実在する団体・人物・出来事とは関係ありません(笑)。

昔々あるところに、研究を重視する理系の大学院があったそうです。その大学院で、研究者としての実績と入試や教養学部での英語の成績を比較したところ、

英語力が高いと研究能力も高い

という相関関係が出てきたそうです。大学入試では簡単に配点を変えることは出来ないので、学科(専攻)単位で科目や配点を自由に設定できる大学院の入学試験で、英語の配点を上げてみたそうです。

その結果、大学院から入学する学生の出身大学が、理系科目の強い大学から、大学入試で英語を重視している大学に重心が移り、学生の英語力は高くなったものの研究のベースとなる理系科目の素養に問題が出てきた為、結局数年で元の方式に戻すことになったとか。

ここでの失敗の原因は「大学入試を突破した学生の中で」という前提条件が抜けていたことです。大学入試に合格した、どの科目もある程度以上はできる学生の中で比較した場合に、英語能力と研究実績に正の相関があったというデータを、「その前提条件をなくしても成り立つ」と「誤認」してしまったと考えられます。
ついでにツッコミを入れておくと、おそらく同じデータで国語や数学の点数と研究実績にも正の相関があったと思われますが、「英語を重視したい勢力」が意図的に無視したのではないか、推測されます。



研究者に必要な英語能力は、英語ネイティヴの論文審査員にpoor Englishと酷評されようが、学会発表で「お前の英語は分からない」と馬鹿にされようが、めげずに発表する胆力だと自分は考えています。
非英語ネイティヴの研究者も多いので、誰も「文法的に正しい英語」や「美しい発音」を期待していません。英語でむかつくことを言われたら、4 letterで応戦すればいいのです(笑)。

また、昔は「原文で英語が読める」ことに優位性がありましたが、現在はざっと読んで大意を掴むくらいなら翻訳ソフトで充分です。外国人とのメールベースでのやりとりですら「お互い翻訳ソフトを使っているんじゃないか」と思うこともあります(笑)。

翻訳技術が進歩して「英語が使えること」の優位性が低下している中で、今さら「日本人に対して英語で高等教育をする」ことに拘る必要もないと自分は思います。
明治の先人たちの努力の結果、高等教育まで日本語で受けられる社会であることは、日本人にとっての大きな利点です。
英語だけはできる人間の、英語を利用した目先の金儲けの為に、この「日本人が日本語で学ぶことができるメリット」を軽視するのは、日本人の平均能力を下げるだけではないか、と自分は考えます。