(1)教育とは「学ぶこと」では無くなった。
私は第二次ベビーブームの世代だ。私が小学校や中学校の頃を考えて見ると、「受験戦争」「偏差値」「3高(高学歴・高身長・高収入)」「校内暴力」「ツッパリ」「いじめ」「ファミコン」などのキーワードがすぐに思いつく。大人の入り口に立つ世代だが、未熟がゆえに大人に立ち向かえずに頭を押さえつけられる窮屈感、そしてそこから逃れたいともがき苦しむ姿は形は違えどいつの時代でも同じ気持ちだろうと思う。
私は小学校3年生くらいから塾に通っていた。同年代から見ても早い方だったと思う。しかし勉強そのものが面白いと思ったことは浪人時代まで一度も無い。それは答えを導き出す事ばかりの教育だったからかもしれないが、そんなに答えを知りたいなら模範解答を丸写しすれば良いじゃないかと当時から思っていた。
しかし事あるごとにテストで順位がつけられる。その結果を見て親は一喜一憂する。特に中学受験の際には「公立に言ったら大変だぞ」と言われ続け、結局公立に行く事になった。どんなに恐ろしい所だろうと思っていたが、振り返ってみれば今地元で仕事をする上で基盤になっている愛着につながっているようにも思う。
(2)なぜ勉強するのか、という事。
そして高校、予備校と行くわけだが、勉強というのは面白くないのは変わらなかった。しかし予備校の時に、ある現代文の授業があった。長文読解だったが「この作者はバカだから何が言いたいのかよく分からない。だから君たちはこんな文章を読んで学んだ気にならなくて良い」という講師の話を聞いて気が軽くなった覚えがある。
よく「社会に出てからの方が勉強する」というが、それはリアルを学ぶ機会が増えるからであろう。今目の前にある課題をどのように片付けるかという事を求められるからだろうと思う。特に介護では現状の課題、そして予後予測や将来に対する希望などを聞いてからプランを作成する。
しかし希望を言わない利用者も多い。それは能力が落ちた事に対しての喪失感か敗北感かは人それぞれだろうが、少なくとも前向きになれない時に聞いても答えるかは分からない。しかし何も書かないわけにもいかないから、ケアマネが答えを持って来て利用者の希望とする。その手段は、子供に良い学校に行かせたいと親が学校のパンフレットを持ってくる姿と変わらない。
答えを持ってくるだけというのが教育かと言えば、そんな簡単なものでは無い。戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏が言うように、本来は「知育・徳育・体育」が必要なのだろうと思う。
(3)人と人が支え合う時代になるためには。
私が子供の頃からそうなのだから、偏差値教育の問題である知識偏重というのは今もその通りなのだろう。そしてどのように効率よく勉強し、効率よく点数を取るかというゲームのような勉強は、「コスパ」や「タイパ」という言葉に代表されるように、「見返り」ありきの話になっているように思う。しかし世の中効率よく出来るばかりではない。一般的に評価されなくても重要な役割や、非効率に見える事であっても重要な事はいくらでもある。それは人としての心情や道徳的な意識を養う徳育で養われるものだろうが、そういう「困難を乗り越える系」の努力は難しい。
介護の話に戻せば、そもそも介護保険というのが当事者である高齢者の意見をもとに作られたものでは無い。記事の内容はその通りかもしれないが、このように偏差値教育で育ち、効率を求める時代において、当事者意識を持つという事は不可能に近いように思う。今はそういう効率化の時代で、如何に面倒な事、評価にならない事をやらないで人に押し付け、自分は目立ち、評価される事をやるかが大事な時代だ。「人にしかできない」と言うが、その人がやらなくなっているだ。しかもそれは1960年代から始まっていて、その年代も還暦を迎える時代だ。
もしこの提言を実現したいのであれば、教育内容を刷新するしかない。しかし既にサービス化されつつある「苦労を乗り越えさせる」とか「人の痛みを理解する」という事が人にとって良い事で、学ばなければいけない事と理解させるには至らないだろう。「若い時の苦労は買ってでもせよ」というのが当たり前の時代にならない限り、人と人が支え合う時代にはならないと思っている。
