(1)事例紹介
度々目にするこの事例、対象者は男性、認知症があり暴言は近所の人にも及ぶというケース。元町会議員で地元の名士。奥様も地元の名士の出身。娘は嫁いでおり、両親の方針で「嫁に行った娘は先方の家を守る者。実家の騒動には巻き込まない」とケアマネが連絡することも拒否。
認知症の症状は、やっと言ったデイサービスの職員を殴ったり、奥様を夜に追い出すことが相次いだことから、近所の人を開始娘に連絡を取り、話し合いの結果、精神病院に入院してもらう事にする。
しかしその翌日、今までどんなに怒鳴られ追い出されても決して弱音を吐かなかった奥様が「お父さん行っちゃった…淋しいよう」と泣きながら弱音を吐いたとの事。
それを聞いて「私の未熟な支援の結果がこれかと…。申し訳なさでいっぱいになってしまいました。今でも、その時のことを思い起こすと、胸がつまります」とケアマネが自己嫌悪に陥っているという事例である。
(2)すべての人を救えるわけでは無い
ここでのポイントは「利用者と介護者のどちらを救うか」という事である。
極論と言えば極論だろう。
しかしこのような状況だったらどうだろう。
今、あなたはビルの屋上からまさに落ちようとしている二人の人を必死につかんでいる。助けを呼べる状況ではない。
一人は利用者。もう一人は介護者。
もうあなたには体力も握力も残されていない。どちらかの手を離さなければ全員落ちてしまうという状況。逆に言えば片方の手を離せば一人は助けることが出来る。
さて、あなたはどちらの手を放すだろうか?
①利用者の手を放して介護者を助けるだろうか。
②介護者の手を放して利用者を助けるだろうか。
私だったら迷わず「①利用者の手を放して介護者を助ける」を選択する。
介護というのは終わりのない苦しみでもある。
事例のように暴言、暴力があるような人なら、いつまでさらされなければいけないんだと思う。孝行といえば聞こえは良いが、そのために自分が傷つけられる筋合いはない。
自分を傷つけてくる相手のご機嫌を取って、相手の暴言や暴力を甘受していれば、いつか分かってくれて理解が深まるという事は無きにしも非ずではあるが、そういう綺麗事が介護から人を遠ざけた一因であることは見逃してはいけないと思う。
だからこういう相談があれば私は介護者が助かる方法を提案する。その上で介護者がそういう選択を取らないというならば、それはその人の責任である。
このような場合、全てが丸く収まることが出来ればそれに越したことは無いが、そこまでケアマネに求めるのは酷である。いくら優秀なケアマネでもすべてを救えるわけでは無い。
(3)一人でも助けられたら御の字
この結果をもって、このケアマネは奥様に恨まれるかもしれない。でも、もしも奥様がこのご主人と一緒に暮らしたいというなら娘に相談して退院させれば良い。その上で暴言や暴力を受けてもそれは自分の責任だという事である。
夫婦というのはそれぞれの形がある。
だからこそ怒鳴りつけ、暴力をふるう旦那と、それを受け入れている奥様がいるというのはアリと言えばアリなのだ。それは他人では計り知れない「夫婦の絆」なのかもしれない。
しかし奥様が良くても、周りは放っておけないというのもあるだろう。少なくともこういう結末で良かったかどうかという結論は今は出ないのだ。
そして近所からの通報、娘を交えての話し合いで出た一つの結論は、少なくとも奥様をそういう危険な状況から救ったのだ。
逆にケアマネが「夫婦の絆」をストレングスと判断し、どんなに暴言や暴力を受けても奥様は旦那がいなくなる方が不幸せであると何もしなかったら、もっと悲惨な結末を迎えていた可能性もある。
理屈は後から付けようと思えばいくらでも付けられる。良いことも悪いこともそのように結び付けることは出来る。
だからケアマネはその自分の判断に自信を持ってほしいのだ。強いて反省するとするならば、その責任を自分一人で背負いこんでしまったという事だろう。
そこまで責任を背負い込めるほど成熟していなかったという事を課題とすべきだと私は思う。